雲津浦

浦名 雲津浦(くもづうら)
神社名 諏訪神社
祭神 御名方神
所在地 松江市美保関町雲津379

雲津浦諏訪大明神  
  雲(くも)すぎて 晴(はれ)ぬと 諏訪(すわ)の神風(かみかぜ)に
            さそわれ出(いづ)る 浦(うら)の船人(ふなびと)

雲津浦
雲津浦

地図上の民宿「下角屋」は、現在営業していません。

諏訪神社は長野県の諏訪神社にちなむ諏訪湖を模した池が神社と海の間に掘られており、また本殿前には、祭神の御名方神にちなみ「力比べ石」が二個置かれており、この神社の来歴等を物語っています。

四十二浦巡りの由来を伝える「雲州四十二浦の詠歌」の扁額は、拝殿内に掲出されていますが、四十二浦巡りの起源を物語る資料で、その根拠となっている明治四十年に発行された「雲津誌」の原本を集落内個人宅で保存し今に伝えられています。

 諏訪神社の汐汲み場は、拝殿の正面の入り口付近の低い岩場で、雲津ではそこで小石を四個拾って神社前の鳥居の足元に二個ずつ置いてから参拝するのが習慣となっています。

 諏訪神社の右手を海岸伝いに岩場を回りこむと、通称で「穴観音」、正しくは「ヤドリノ窟」と呼び、入り口付近に観音様が祀られています。いつ頃から安置されたかは定かではありません。美保神社の奥の院に十一面観音菩薩がありますが、諏訪神社でもコトシロヌシ神の「やどり給う所」として観音様を置いたと伝えられています。以前は雲津浦を除く美保関地域で死者が出ると家族、親族がこの窟を訪れて観音様に御札を納めに来られたものですが、今は落石があり危険なため誰も立ち入らず、付近の海岸の岩場に「南無阿弥陀仏」の札が貼ってあるのを見ることがあります。

 毎年五月四日に執り行われる子供祭りの「かんからまつり」の起源は、江戸時代にさかのぼるかも知れませんが、明治初年頃の資料が確認されています。「平安時代末期に対馬守に任じられた源義親は、鎮西(九州)で謀反を起こして隠岐へ流罪になった。隠岐を脱出した義親は出雲で再び反乱を起こし、雲津の地で追討使の因幡国守平正盛に討たれた。」と云う史実があります。修験山伏の卜占により、疫病はこの地で無念の最後をとげた源義親の怨念の祟りが原因だとされ、源義親の霊を鎮めるため、「かんから祭り」は今も続けられています。島根半島の北側の海岸線の東側は、現在この雲津浦までですが、道路工事が進められていて、やがて軽尾(かるび)、才を抜けて美保神社まで通じることになっています。

雲津浦

「雲津」は「蜘戸」、そして古く『出雲国風土記』には「久毛等浦」と見え、「十の船泊つべし」とあり、古代良港であったことがうかがえる

「雲津」は「蜘戸」、そして古く『出雲国風土記』には「久毛等浦」と見え、「十の船泊つべし」とあり、古代良港であったことがうかがえる。残念ながら風土記に神社の記載はみえない。しかし、風土記には「久毛等」のところで「東より西に行く」とあり、島根半島北岸の最東端の拠点の港湾とされており、当然航海の安全など司る神の鎮座、即ち神社は存在したであろう。 

現存『出雲国風土記』島根郡条では十の神社の記載が脱落しており、その一社に「久毛等」社があったことは間違いないであろう。 

現在、港湾の東側の字・宮の鼻に諏訪神社が鎮座している。かつての諏訪大明神であり、実はその本殿に奉納されていた額装の御詠歌が四十二浦巡りの最古の資料であった。残念ながら昭和六十一年、心無き人の焚火により社殿は全焼し、額装の御詠歌も失われてしまった。幸いに 明治四十年の山田賀太郎編の『雲津誌』に全文が載せられており、今日の四十二浦研究の基本資料となっている。 

雲津の人々の力により再建された社殿は美保関の美保神社、福浦の三保神社と同じく二殿並立である。かつては向って右手を諏訪神社、左手を美保神社として祭っていたという。(関 和彦)

浦名 雲津浦(くもづうら)
神社名 諏訪神社
祭神 御名方神
所在地 松江市美保関町雲津379

雲津浦諏訪大明神  
  雲(くも)すぎて 晴(はれ)ぬと 諏訪(すわ)の神風(かみかぜ)に
            さそわれ出(いづ)る 浦(うら)の船人(ふなびと)

現地までのアクセス
浦巡りガイド

地図上の民宿「下角屋」は、現在営業していません。

諏訪神社は長野県の諏訪神社にちなむ諏訪湖を模した池が神社と海の間に掘られており、また本殿前には、祭神の御名方神にちなみ「力比べ石」が二個置かれており、この神社の来歴等を物語っています。

四十二浦巡りの由来を伝える「雲州四十二浦の詠歌」の扁額は、拝殿内に掲出されていますが、四十二浦巡りの起源を物語る資料で、その根拠となっている明治四十年に発行された「雲津誌」の原本を集落内個人宅で保存し今に伝えられています。

 諏訪神社の汐汲み場は、拝殿の正面の入り口付近の低い岩場で、雲津ではそこで小石を四個拾って神社前の鳥居の足元に二個ずつ置いてから参拝するのが習慣となっています。

 諏訪神社の右手を海岸伝いに岩場を回りこむと、通称で「穴観音」、正しくは「ヤドリノ窟」と呼び、入り口付近に観音様が祀られています。いつ頃から安置されたかは定かではありません。美保神社の奥の院に十一面観音菩薩がありますが、諏訪神社でもコトシロヌシ神の「やどり給う所」として観音様を置いたと伝えられています。以前は雲津浦を除く美保関地域で死者が出ると家族、親族がこの窟を訪れて観音様に御札を納めに来られたものですが、今は落石があり危険なため誰も立ち入らず、付近の海岸の岩場に「南無阿弥陀仏」の札が貼ってあるのを見ることがあります。

 毎年五月四日に執り行われる子供祭りの「かんからまつり」の起源は、江戸時代にさかのぼるかも知れませんが、明治初年頃の資料が確認されています。「平安時代末期に対馬守に任じられた源義親は、鎮西(九州)で謀反を起こして隠岐へ流罪になった。隠岐を脱出した義親は出雲で再び反乱を起こし、雲津の地で追討使の因幡国守平正盛に討たれた。」と云う史実があります。修験山伏の卜占により、疫病はこの地で無念の最後をとげた源義親の怨念の祟りが原因だとされ、源義親の霊を鎮めるため、「かんから祭り」は今も続けられています。島根半島の北側の海岸線の東側は、現在この雲津浦までですが、道路工事が進められていて、やがて軽尾(かるび)、才を抜けて美保神社まで通じることになっています。

「雲津」は「蜘戸」、そして古く『出雲国風土記』には「久毛等浦」と見え、「十の船泊つべし」とあり、古代良港であったことがうかがえる

「雲津」は「蜘戸」、そして古く『出雲国風土記』には「久毛等浦」と見え、「十の船泊つべし」とあり、古代良港であったことがうかがえる。残念ながら風土記に神社の記載はみえない。しかし、風土記には「久毛等」のところで「東より西に行く」とあり、島根半島北岸の最東端の拠点の港湾とされており、当然航海の安全など司る神の鎮座、即ち神社は存在したであろう。 

現存『出雲国風土記』島根郡条では十の神社の記載が脱落しており、その一社に「久毛等」社があったことは間違いないであろう。 

現在、港湾の東側の字・宮の鼻に諏訪神社が鎮座している。かつての諏訪大明神であり、実はその本殿に奉納されていた額装の御詠歌が四十二浦巡りの最古の資料であった。残念ながら昭和六十一年、心無き人の焚火により社殿は全焼し、額装の御詠歌も失われてしまった。幸いに 明治四十年の山田賀太郎編の『雲津誌』に全文が載せられており、今日の四十二浦研究の基本資料となっている。 

雲津の人々の力により再建された社殿は美保関の美保神社、福浦の三保神社と同じく二殿並立である。かつては向って右手を諏訪神社、左手を美保神社として祭っていたという。(関 和彦)