多古浦

浦名 多古浦(たこうら)
神社名 八幡宮
祭神 誉田別命
所在地 松江市島根町多古461
多古浦三所荒神   
立浪(たつなみ)の しらゆう花(はな)を ささげつつ
           掃(はら)ひ清(きよ)むる 多古(たこ)の 神風(かみかぜ)
多古浦

ただいま準備中です

多古浦

多古八幡宮は、港まで下り立ち仰ぎ見る右手の山の上にあります。沢山の石段があり構えて登る必要がありますが、神社裏手の広場から下るアスファルトの道路もあります。多古湾を眺め下ろす八幡宮には、潮汲み竹筒が奉納されており、忌明けの潮汲みの信仰が見てとれます。

多古の正月は、歳徳神の宮練で始まります。三十~四十代の若者が「もっと回せ」等と気合を入れられながら、酒の勢いで懸命に煉り回していました。また、漁の安全と大漁を祈願する「御船流し」も大切な行事です。正月五日に漁師が集まり藁で船を造り、七日の夜明けに多古湾頭に流します。藁舟には、竜神様への貢物でしょうか、五穀・まゆ玉とみかんを積み込みます。

多古からさらに北側に登ると、天空の岬「マリンパーク多古鼻」があります。マリンパーク多古鼻は、島根半島最北端海抜百mの高台にあり、出雲国風土記にある瀬崎の戍(まもり)の防人も見張り台の一つとして使用したと伝わります。隠岐諸島等二百七十度の眺望で漁火と夜空に星のさざめきは、山岳の夜空に比べても長く記憶に残る光景です。また、ここには六人が一緒に宿泊できるキャビン(貸別荘)が一六棟、キャンプサイトもあります。利用するためには二日前までに申し込むことが肝要です。来年の七月の予約は来る一月一日から受け付けを開始されと云いますから、夏の計画は寒い頃に検討を始める必要があります。

御船

幕末に訪れた金崎善平は「三宝荒神」としている

現在、多古地域に鎮座している神社は字小林の八幡宮をおいて他にはなく、三所神社が八幡宮になったのであろう。

享保二(一七一七)年編纂の『雲陽誌』島根郡多古浦に「三所荒神」の社名は見えず、幕末に訪れた金崎善平は「三宝荒神」としている。「三宝」とは本来的には「仏法僧」、仏教の守護神であるが、日常生活の中では火・水・土などの神として信仰されていたようである。

応神天皇の祀る八幡宮と「三所荒神」「三宝荒神」とでは別世界のようにみえるが神仏混交の近世においては普通に並存していた可能性もある。現在でも八幡宮の境内に三宝荒神が合祀されている事例はある。

 尚、昭和二十一(一九四六)年に届け出られた『島根郡神社明細帳』によれば八幡宮は津和野藩の家老の「多古」外記左衛門丞が勧請したという。また境内社としては八坂神社(須佐之男命)・恵比須神社(事代主神)、金比羅神社(大国主命)の鎮座が記されている。その三社と「三所荒神」に関係があるのであろうか。尚、金比羅神社は「大国主神荒魂」神社とも呼ばれ八坂の須佐之男と同じく「荒神」であったことは興味深い。

301
浦名 多古浦(たこうら)
神社名 八幡宮
祭神 誉田別命
所在地 松江市島根町多古461
多古浦三所荒神   
立浪(たつなみ)の しらゆう花(はな)を ささげつつ
           掃(はら)ひ清(きよ)むる 多古(たこ)の 神風(かみかぜ)
現地までのアクセス
浦巡りガイド

多古八幡宮は、港まで下り立ち仰ぎ見る右手の山の上にあります。沢山の石段があり構えて登る必要がありますが、神社裏手の広場から下るアスファルトの道路もあります。多古湾を眺め下ろす八幡宮には、潮汲み竹筒が奉納されており、忌明けの潮汲みの信仰が見てとれます。

多古の正月は、歳徳神の宮練で始まります。三十~四十代の若者が「もっと回せ」等と気合を入れられながら、酒の勢いで懸命に煉り回していました。また、漁の安全と大漁を祈願する「御船流し」も大切な行事です。正月五日に漁師が集まり藁で船を造り、七日の夜明けに多古湾頭に流します。藁舟には、竜神様への貢物でしょうか、五穀・まゆ玉とみかんを積み込みます。

多古からさらに北側に登ると、天空の岬「マリンパーク多古鼻」があります。マリンパーク多古鼻は、島根半島最北端海抜百mの高台にあり、出雲国風土記にある瀬崎の戍(まもり)の防人も見張り台の一つとして使用したと伝わります。隠岐諸島等二百七十度の眺望で漁火と夜空に星のさざめきは、山岳の夜空に比べても長く記憶に残る光景です。また、ここには六人が一緒に宿泊できるキャビン(貸別荘)が一六棟、キャンプサイトもあります。利用するためには二日前までに申し込むことが肝要です。来年の七月の予約は来る一月一日から受け付けを開始されと云いますから、夏の計画は寒い頃に検討を始める必要があります。

ENGLISH PAGE
御船

幕末に訪れた金崎善平は「三宝荒神」としている

現在、多古地域に鎮座している神社は字小林の八幡宮をおいて他にはなく、三所神社が八幡宮になったのであろう。

享保二(一七一七)年編纂の『雲陽誌』島根郡多古浦に「三所荒神」の社名は見えず、幕末に訪れた金崎善平は「三宝荒神」としている。「三宝」とは本来的には「仏法僧」、仏教の守護神であるが、日常生活の中では火・水・土などの神として信仰されていたようである。

応神天皇の祀る八幡宮と「三所荒神」「三宝荒神」とでは別世界のようにみえるが神仏混交の近世においては普通に並存していた可能性もある。現在でも八幡宮の境内に三宝荒神が合祀されている事例はある。

 尚、昭和二十一(一九四六)年に届け出られた『島根郡神社明細帳』によれば八幡宮は津和野藩の家老の「多古」外記左衛門丞が勧請したという。また境内社としては八坂神社(須佐之男命)・恵比須神社(事代主神)、金比羅神社(大国主命)の鎮座が記されている。その三社と「三所荒神」に関係があるのであろうか。尚、金比羅神社は「大国主神荒魂」神社とも呼ばれ八坂の須佐之男と同じく「荒神」であったことは興味深い。