伊野浦
浦名 | 伊野浦(いのうら) |
---|---|
神社名 | 狭槌神社 |
祭神 | 國狭槌尊 |
所在地 | 出雲市地合町168 |
ただいま準備中です
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狭槌神社を訪ねる時、坂浦から伊野浦へ向かう場合は、普通車がやっと一台通れる道を一キロメ-トルばかり対向車に気を付けながら進む必要があります。魚瀬町から向かう場合は大野町に向かう道路の途中から「一畑薬師」への案内標識に従って進み東地合から西地合の伊野浦漁港を目指します。朝晩の暑さが緩んだこの九月末頃坂浦から鹿島町古浦を目指していた時に、海に沈む夕日を見ることになり、感動しました。しかし、その後すぐに辺りは暗くなり、古浦までの山道はガソリン残量を心配する等心細い旅となりました。
狭槌神社は平成25年11月17日に三十五年ぶりの遷宮が行われることとなり、本殿の改築と周辺の環境整備等大規模な工事が行われています。神社のトイレは洋式となっており参拝者への配慮がありました。また、鳥居付近には、伊野浦に漂着した無縁仏が手厚く供養されています。
伊野浦のとんどは、氏子が集まり二升の餅つきから始まります。それをとんどさんにお供えして、小中学生が舞う子供神楽を始めます。夜七時頃から十二時頃まで、榊取り、おろち退治などの演目で、これは明治の頃には既に始まっていた伝承行事で、戦後は正月以外にも自治会などのイベントに参加する等熱心に取り組まれています
また、五月十三日の恵比寿祭りには、伊野浦の港の東側に海中から岩を取ってきて、魚貝類をお供えし、その後サザエなどは海に帰し、漁の安全と大漁を祈願したものと思われます。
四十二浦巡り、伊野浦では参拝神社が焼火権現となっている
四十二浦巡り、伊野浦では参拝神社が焼火権現となっている。伊野地域、現地合町の現在の鎮守は狭槌神社である。「狭槌」といえば当然祭神は国狭槌尊であろう。実は享保二年の『雲陽誌』の秋鹿郡伊野村の条項をみると、「焼火権現 甕速日命」と並んで「八王子 国狭槌尊」が見えており、本来は別の神社であったことが分かる。
「焼火」といえば隠岐の西ノ島の焼火神社が気になる。伊野から隠岐は優に望める場所であり、その船神、航海神としての神威を頼み、勧請したのであろう。「甕速日」は火の神である。火が航海の目印として尊重されたのであろう。尚、隠岐の焼火神社の祭神は大日孁貴尊であるが、それが称されたのは元禄年間であり、焼火権現の伊野への勧請はそれ以前に遡るのであろう。
明治四年に東地合に鎮座していた焼火神社を西地合の八王子神社に合祀し、社名を八王子社の祭神「国狭槌尊」から狭槌神社と改称し今日に至っている。
境内は急斜面に形成された集落の中にあるが、狭い空間にもかかわらず神が安住できる雰囲気を持つ。春日造の社殿の下に小さな模型のような神社が置かれている。もしかすると合祀された焼火神社を意識しているのであろうか気になるところである。 鳥居の横にあるお堂は潮音庵というらしい。中をお参りすると焼火の神と慣れ親しんだ古い仏たちが静まっている。神・仏に航海の安全を祈る地合の人々の願いが迫ってくる。(関 和彦)
浦名 | 伊野浦(いのうら) |
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神社名 | 狭槌神社 |
祭神 | 國狭槌尊 |
所在地 | 出雲市地合町168 |
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狭槌神社を訪ねる時、坂浦から伊野浦へ向かう場合は、普通車がやっと一台通れる道を一キロメ-トルばかり対向車に気を付けながら進む必要があります。魚瀬町から向かう場合は大野町に向かう道路の途中から「一畑薬師」への案内標識に従って進み東地合から西地合の伊野浦漁港を目指します。朝晩の暑さが緩んだこの九月末頃坂浦から鹿島町古浦を目指していた時に、海に沈む夕日を見ることになり、感動しました。しかし、その後すぐに辺りは暗くなり、古浦までの山道はガソリン残量を心配する等心細い旅となりました。
狭槌神社は平成25年11月17日に三十五年ぶりの遷宮が行われることとなり、本殿の改築と周辺の環境整備等大規模な工事が行われています。神社のトイレは洋式となっており参拝者への配慮がありました。また、鳥居付近には、伊野浦に漂着した無縁仏が手厚く供養されています。
伊野浦のとんどは、氏子が集まり二升の餅つきから始まります。それをとんどさんにお供えして、小中学生が舞う子供神楽を始めます。夜七時頃から十二時頃まで、榊取り、おろち退治などの演目で、これは明治の頃には既に始まっていた伝承行事で、戦後は正月以外にも自治会などのイベントに参加する等熱心に取り組まれています
また、五月十三日の恵比寿祭りには、伊野浦の港の東側に海中から岩を取ってきて、魚貝類をお供えし、その後サザエなどは海に帰し、漁の安全と大漁を祈願したものと思われます。
四十二浦巡り、伊野浦では参拝神社が焼火権現となっている
四十二浦巡り、伊野浦では参拝神社が焼火権現となっている。伊野地域、現地合町の現在の鎮守は狭槌神社である。「狭槌」といえば当然祭神は国狭槌尊であろう。実は享保二年の『雲陽誌』の秋鹿郡伊野村の条項をみると、「焼火権現 甕速日命」と並んで「八王子 国狭槌尊」が見えており、本来は別の神社であったことが分かる。
「焼火」といえば隠岐の西ノ島の焼火神社が気になる。伊野から隠岐は優に望める場所であり、その船神、航海神としての神威を頼み、勧請したのであろう。「甕速日」は火の神である。火が航海の目印として尊重されたのであろう。尚、隠岐の焼火神社の祭神は大日孁貴尊であるが、それが称されたのは元禄年間であり、焼火権現の伊野への勧請はそれ以前に遡るのであろう。
明治四年に東地合に鎮座していた焼火神社を西地合の八王子神社に合祀し、社名を八王子社の祭神「国狭槌尊」から狭槌神社と改称し今日に至っている。
境内は急斜面に形成された集落の中にあるが、狭い空間にもかかわらず神が安住できる雰囲気を持つ。春日造の社殿の下に小さな模型のような神社が置かれている。もしかすると合祀された焼火神社を意識しているのであろうか気になるところである。 鳥居の横にあるお堂は潮音庵というらしい。中をお参りすると焼火の神と慣れ親しんだ古い仏たちが静まっている。神・仏に航海の安全を祈る地合の人々の願いが迫ってくる。(関 和彦)