古浦

浦名 古浦(こうら)
神社名 天満宮
祭神 菅原道真公
所在地 松江市鹿島町古浦230
敷島(しきしま)の道をかしこみ天満(あまみつ)に
   神よしるらし宮のうらはも
古浦

ただいま準備中です

古浦

魚瀬から古浦までの海岸沿いの林道は、曲がりくねっていて整備されていない頃は命懸けの難所で、巡礼者に「魚瀬はまだか」と云わせています。しかし、古浦に近ずくと桜の並木の間から古浦の海水浴場、恵曇の港等がだんだんと見えてきて、わき目も振らず運転していたのが俄然元気が出ます。古浦の集落に入るとすぐに天満宮の鳥居が目に入りますが、天満宮の敷地の西側の小川沿いには、今も「出雲大社・一畑薬師」への自然石の標柱が立っており、一畑薬師へは魚瀬方面の山道を指しています。

古浦は江戸時代に恵曇と並び製塩が盛んでしたが、一七八七年に宍道湖と日本海を結ぶ佐陀川が開通してからは、衰退しました。佐陀川開削によりイザナギの命がイザナミの命の死後の世界から帰る時に身を清めたと言う「身澄池」も昔は亀も泳ぐ池だったのが今は枯山水の池となっています。日本海側では佐陀川を挟んで南側が古浦、北側が恵曇です。

 古浦天満宮の拝殿の右手後ろの社には、歳徳神の神輿と共に「あなたさん」と敬称する大國主神・事代主神の像が収納されており、正月の二日、三日には藁の胴体で像を作り上げ参拝することが出来ます。また、古浦のとんどでは歳徳神の神輿と共にその年の干支の張り子の像を作って担ぎ出しますが、酉年と己年には、干支の像を造らないことになっています。平成二十五年の己年には四十年ぶりに「あなたさん」を担ぎ出し町内を巡行されました。担ぎ手は顔に白・赤・青を塗りつけて人の見分けが付きません。

また、天満宮の祭神は「綱引き天神」とも呼ばれており、四月二十日には、灘祭と呼ばれる大漁と漁の安全を祈願する「竜神祭り」が行われます。外海に漕ぎ出でて竜神を迎えるための社と木製の船が拝殿にあります。午後竜神をお迎えして夜九時頃には海に送ります。ここ数年は荒れる日が多くて、浜近くで執り行っているとのことでした。

古浦では最近まで十一月に五・六年生がお囃子を担当し、小学四年生の女子四人が拝殿で神楽「浦安の舞」を踊っていたとのことでした。浦安の舞は、昭和一五年、皇紀二千六百年のお祝いに昭和天皇の御製を歌詞として、女性が舞う神楽として全国の神社で舞うこととされ、現在に至っています。「浦」は心を指す古語であり、「うらやす」で心中の平穏を表す語とされます。「浦巡り」の「浦」とも通じます。隣の恵曇では、今年も十一月九日に行われる予定です。美保関町の美保神社では例年のとおり九月一六日の敬老の日十時頃に氏子の中学二年生の女子四人が舞いました。宮司が拝殿で同席して舞が始まります。踊りの初めは、舞手が持つのは扇でしたが、そのうち両刃の短剣を神前に捧げ持つ形となり、また舞いの途中で背後に反りかえるしぐさが舞の流れを中断させる印象的なものでした。

正月の 「あなたさん」(えびす・だいこく)

古浦の天満宮は風土記の語るその砂丘上に位置している

古浦の地名は『出雲国風土記』では「恵曇」に組み込まれ、姿をみせないが恵曇に関する記述は古浦地域に重点をおいていることが分かる。

『出雲国風土記』には「惠曇浜 広さ二里一百八十歩なり。東と南とはならびに家あり。
西は野北は大海なり。」とある。昔、この地域の人は一般的に日本海を北と意識していたようである。惠曇の海はどうみても「西」である。その方向感覚からいうと「北と東は家」「南は野」ということになろう。恵曇では方角を意識して歩きたい。

 古浦砂丘に関する『出雲国風土記』の記載は歴史的・具体的・描写的であり、古代の開発と集落、そして神社との関係を知る唯一の貴重な情報である(詳細は関和彦『風土記と古代社会』にゆずる)。

 古浦の天満宮は風土記の語るその砂丘上に位置している。菅原道真を祭神とする当社の起源に関しては不明であるが、神社蔵の棟札にみえる由緒では寛治七(一〇九三)年とされているが、確認の術はない。但し天正六(一五七八)年の棟札にも「古浦天神」と記されているという。

259
浦名 古浦(こうら)
神社名 天満宮
祭神 菅原道真公
所在地 松江市鹿島町古浦230
敷島(しきしま)の道をかしこみ天満(あまみつ)に
   神よしるらし宮のうらはも
現地までのアクセス
浦巡りガイド

魚瀬から古浦までの海岸沿いの林道は、曲がりくねっていて整備されていない頃は命懸けの難所で、巡礼者に「魚瀬はまだか」と云わせています。しかし、古浦に近ずくと桜の並木の間から古浦の海水浴場、恵曇の港等がだんだんと見えてきて、わき目も振らず運転していたのが俄然元気が出ます。古浦の集落に入るとすぐに天満宮の鳥居が目に入りますが、天満宮の敷地の西側の小川沿いには、今も「出雲大社・一畑薬師」への自然石の標柱が立っており、一畑薬師へは魚瀬方面の山道を指しています。

古浦は江戸時代に恵曇と並び製塩が盛んでしたが、一七八七年に宍道湖と日本海を結ぶ佐陀川が開通してからは、衰退しました。佐陀川開削によりイザナギの命がイザナミの命の死後の世界から帰る時に身を清めたと言う「身澄池」も昔は亀も泳ぐ池だったのが今は枯山水の池となっています。日本海側では佐陀川を挟んで南側が古浦、北側が恵曇です。

 古浦天満宮の拝殿の右手後ろの社には、歳徳神の神輿と共に「あなたさん」と敬称する大國主神・事代主神の像が収納されており、正月の二日、三日には藁の胴体で像を作り上げ参拝することが出来ます。また、古浦のとんどでは歳徳神の神輿と共にその年の干支の張り子の像を作って担ぎ出しますが、酉年と己年には、干支の像を造らないことになっています。平成二十五年の己年には四十年ぶりに「あなたさん」を担ぎ出し町内を巡行されました。担ぎ手は顔に白・赤・青を塗りつけて人の見分けが付きません。

また、天満宮の祭神は「綱引き天神」とも呼ばれており、四月二十日には、灘祭と呼ばれる大漁と漁の安全を祈願する「竜神祭り」が行われます。外海に漕ぎ出でて竜神を迎えるための社と木製の船が拝殿にあります。午後竜神をお迎えして夜九時頃には海に送ります。ここ数年は荒れる日が多くて、浜近くで執り行っているとのことでした。

古浦では最近まで十一月に五・六年生がお囃子を担当し、小学四年生の女子四人が拝殿で神楽「浦安の舞」を踊っていたとのことでした。浦安の舞は、昭和一五年、皇紀二千六百年のお祝いに昭和天皇の御製を歌詞として、女性が舞う神楽として全国の神社で舞うこととされ、現在に至っています。「浦」は心を指す古語であり、「うらやす」で心中の平穏を表す語とされます。「浦巡り」の「浦」とも通じます。隣の恵曇では、今年も十一月九日に行われる予定です。美保関町の美保神社では例年のとおり九月一六日の敬老の日十時頃に氏子の中学二年生の女子四人が舞いました。宮司が拝殿で同席して舞が始まります。踊りの初めは、舞手が持つのは扇でしたが、そのうち両刃の短剣を神前に捧げ持つ形となり、また舞いの途中で背後に反りかえるしぐさが舞の流れを中断させる印象的なものでした。

ENGLISH PAGE
正月の 「あなたさん」(えびす・だいこく)

古浦の天満宮は風土記の語るその砂丘上に位置している

古浦の地名は『出雲国風土記』では「恵曇」に組み込まれ、姿をみせないが恵曇に関する記述は古浦地域に重点をおいていることが分かる。

『出雲国風土記』には「惠曇浜 広さ二里一百八十歩なり。東と南とはならびに家あり。
西は野北は大海なり。」とある。昔、この地域の人は一般的に日本海を北と意識していたようである。惠曇の海はどうみても「西」である。その方向感覚からいうと「北と東は家」「南は野」ということになろう。恵曇では方角を意識して歩きたい。

 古浦砂丘に関する『出雲国風土記』の記載は歴史的・具体的・描写的であり、古代の開発と集落、そして神社との関係を知る唯一の貴重な情報である(詳細は関和彦『風土記と古代社会』にゆずる)。

 古浦の天満宮は風土記の語るその砂丘上に位置している。菅原道真を祭神とする当社の起源に関しては不明であるが、神社蔵の棟札にみえる由緒では寛治七(一〇九三)年とされているが、確認の術はない。但し天正六(一五七八)年の棟札にも「古浦天神」と記されているという。