七類浦

浦名 七類浦(しちるいうら)
神社名 質留比神社
祭神 美保津比女命
事代主命
所在地 松江市美保関町七類1917

七類浦喜多大明神  
諸人(もろびと)の あゆみ絶(たた)せじ我(われ)も今(いま)
              詣(もう)で来(き)たれる 神(かみ)の御前(みまえ)に

七類浦

七類浦 質留比神社

 美保関コミュニティバス 

 七類線万原タ-ミナル乗車  →(20分)七類下車 徒歩2分

七類浦

美保関町七類の質留比神社周辺の観光案内は、メテオプラザにお問い合わせください。

質留比神社は、県道美保関線の七類港方面、コンビニを右、左に松江警察署の派出所を見ながら北上してトンネルを下ると世界ジオパーク候補地の隠岐の島への玄関口、七類港へ曲がるあたりにあります。

 この神社の例祭は、正月3日頃のトンド祭が楽しそうで、子供が持つ赤い旗を先頭に歳徳神の神輿の巡行があり、他の地区の神輿と出会うとぶつけ合う等激しい挨拶があります。

 また、トンドさんの時に当屋の交代があり、新当屋6人は、顔に墨の化粧をして貰い練り歩くと言うものです。

一方子供たちは、神輿の篭り所に集まり昼食をとり、町内の大人たちが集めた山のように積み上げられたお菓子を山分けにして持って帰ります。十年前までは、子供たちがここで雑魚寝をして泊まったものだと言うことでした。昔の子供達にとっては、年に一回の夢のようなプレゼントを心待ちにし、また家を離れて神社に泊まるという未知の体験に心躍らせていたのだと思います。

 ここの例祭では、祭神に、サトイモ・アラメ・大根のそぎ切りの3種類を三宝に載せてお供えします。海と山の幸に消化の良い大根。ためしに準備して頂いたサトイモはまん丸のおいしそうなものでした。

 神社から東に向かうと隠岐島へのフェリー・高速船の乗船場があるメティオプラザがあります。温水プール等があり今の子供たちの集まる場所ですが、今から二十年前の十二月に七類から西側の山を一つ越えたあたりの惣津浦の明島神社付近の民家に落下した隕石も展示しています。

七類浦

「七類」、『出雲国風土記』に「質留比浦」とみえる

「七類」、『出雲国風土記』に「質留比浦」とみえる。「南に神社あり。北に百姓の家あり。三十の船泊つべし」ともみえる。島根半島北海岸最大の港湾であったと思われる。南の神社は「質留比社」であり、現在も七類から宇井に向う485号線を上った右手に鎮座している。 

問題は四十二浦詠歌にみえる「喜多大明神」という見慣れぬ神社名である。『雲陽誌』をみても七類浦には「美保明神」と「国吉明神」しか見えず、明治の皇国地誌には「質留比神社」と「三穂神社」がみえるだけである。流れからみて「国吉明神」を明治になって風土記の「質留比社」に充てたのであろう。 

興味深いのは文久三年に七類を訪れた金崎善平は七類の神社を「国司大明神」と書き残している事実である。「国司」は「国吉」のことであろう。つまり喜多大明神の別称が「国吉(国司)」なのであろう。 なお、「喜多」であるが、実は江戸初期の岸崎時照が七類の神社として「支太大明神」の名を挙げている事実がある。「支太」「喜多」はともに「きた」でありつながるのであろう。 

慶応二年、七類を訪れた小村和四郎重義は「灘の宮」の「三保大明神」を参拝し、次に山を上り「上の宮」の「国司大明神」を参拝している。現在の質留比神社は明らかに「上の宮」であり、それが「国司大明神」であり、また「喜多(支太)大明神」なのであろう。美保関町が編纂した『美保関町誌』によれば現・質留比神社の少し上手の字名が「来が谷(きたがたん)」という。その「きた」はその歴史を物語っているのであろう。      (関 和彦)

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浦名 七類浦(しちるいうら)
神社名 質留比神社
祭神 美保津比女命
事代主命
所在地 松江市美保関町七類1917

七類浦喜多大明神  
諸人(もろびと)の あゆみ絶(たた)せじ我(われ)も今(いま)
              詣(もう)で来(き)たれる 神(かみ)の御前(みまえ)に

現地までのアクセス
浦巡りガイド

美保関町七類の質留比神社周辺の観光案内は、メテオプラザにお問い合わせください。

質留比神社は、県道美保関線の七類港方面、コンビニを右、左に松江警察署の派出所を見ながら北上してトンネルを下ると世界ジオパーク候補地の隠岐の島への玄関口、七類港へ曲がるあたりにあります。

 この神社の例祭は、正月3日頃のトンド祭が楽しそうで、子供が持つ赤い旗を先頭に歳徳神の神輿の巡行があり、他の地区の神輿と出会うとぶつけ合う等激しい挨拶があります。

 また、トンドさんの時に当屋の交代があり、新当屋6人は、顔に墨の化粧をして貰い練り歩くと言うものです。

一方子供たちは、神輿の篭り所に集まり昼食をとり、町内の大人たちが集めた山のように積み上げられたお菓子を山分けにして持って帰ります。十年前までは、子供たちがここで雑魚寝をして泊まったものだと言うことでした。昔の子供達にとっては、年に一回の夢のようなプレゼントを心待ちにし、また家を離れて神社に泊まるという未知の体験に心躍らせていたのだと思います。

 ここの例祭では、祭神に、サトイモ・アラメ・大根のそぎ切りの3種類を三宝に載せてお供えします。海と山の幸に消化の良い大根。ためしに準備して頂いたサトイモはまん丸のおいしそうなものでした。

 神社から東に向かうと隠岐島へのフェリー・高速船の乗船場があるメティオプラザがあります。温水プール等があり今の子供たちの集まる場所ですが、今から二十年前の十二月に七類から西側の山を一つ越えたあたりの惣津浦の明島神社付近の民家に落下した隕石も展示しています。

「七類」、『出雲国風土記』に「質留比浦」とみえる

「七類」、『出雲国風土記』に「質留比浦」とみえる。「南に神社あり。北に百姓の家あり。三十の船泊つべし」ともみえる。島根半島北海岸最大の港湾であったと思われる。南の神社は「質留比社」であり、現在も七類から宇井に向う485号線を上った右手に鎮座している。 

問題は四十二浦詠歌にみえる「喜多大明神」という見慣れぬ神社名である。『雲陽誌』をみても七類浦には「美保明神」と「国吉明神」しか見えず、明治の皇国地誌には「質留比神社」と「三穂神社」がみえるだけである。流れからみて「国吉明神」を明治になって風土記の「質留比社」に充てたのであろう。 

興味深いのは文久三年に七類を訪れた金崎善平は七類の神社を「国司大明神」と書き残している事実である。「国司」は「国吉」のことであろう。つまり喜多大明神の別称が「国吉(国司)」なのであろう。 なお、「喜多」であるが、実は江戸初期の岸崎時照が七類の神社として「支太大明神」の名を挙げている事実がある。「支太」「喜多」はともに「きた」でありつながるのであろう。 

慶応二年、七類を訪れた小村和四郎重義は「灘の宮」の「三保大明神」を参拝し、次に山を上り「上の宮」の「国司大明神」を参拝している。現在の質留比神社は明らかに「上の宮」であり、それが「国司大明神」であり、また「喜多(支太)大明神」なのであろう。美保関町が編纂した『美保関町誌』によれば現・質留比神社の少し上手の字名が「来が谷(きたがたん)」という。その「きた」はその歴史を物語っているのであろう。      (関 和彦)