沖泊浦
浦名 |
沖泊浦(おきどまりうら) |
---|---|
神社名 | 津上神社 |
祭神 | 瀬織津彦神 瀬織津姫神 |
所在地 | 松江市島根町多古1286 |
沖泊浦日御崎神社
海原(うなばら)や 沖泊(おきどまり)する釣舟(つりぶね)の
汀(みぎわ)にかえる あけぼのの空(そら)
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沖泊の津上神社は、マリンパーク多古鼻の大きな立看板を左手に見ながら、港に向かって降りて行くとその谷間の右手の中腹海に背を向けて鎮座しています。参道に当たる路面がカラーブロックで敷き詰められていますので道案内をしてくれます。この神社も多胡八幡と同様に、津和野藩の多古家老が勧請したとの伝説には驚きます。
沖泊の港で恒例の歳徳神宮練が行われますが、ここでも大人が神輿の若い担ぎ手に「もっと回せ」と気合の入った師堂があり、祭礼継承の儀式でした。この宮練が行われる港には、今は休館中のスクーバダイビング教室があり、潜ればピンクのサンゴも見ることが出来ると聞きました。
集落の入口にはトイレ・駐車場がありますが、その脇道の先には「潮掻き穴」と呼ばれる洞窟があります。近親者がなくなり四十九日の忌明けにはここで潮掻きをすることとされていましたが、今は道路整備の為、簡単に下りることが出来ず、他の浦々で潮汲みを続けていると聞きました。この洞窟にはその昔枕木山を越えた南側の松江市長海町辺りで生まれ育ったと言う武蔵坊弁慶が眼病の為四十二浦巡りをして、最後にこの洞窟で潮汲みをして、平癒したと伝わっています。
また、沖泊の東南の海岸には、「多古の七つ穴」と云う名所があり、ここには「枕木穴」と呼ばれる洞窟があって、華蔵寺のある枕木山に繋がっていて、華蔵寺で祭礼などあると米のとぎ汁が流れてきたという伝説もあります。
しかし、今からおよそ八十年前の昭和四年頃若者四人が船を仕立ててこの「枕木穴」と呼ばれる洞窟の探検を行いましたが、結局八十mばかりで行き止まりになっていたと言うことでした。三十mばかりで辺りは暗闇となり、蝙蝠がうごめきろうそくの灯が自然に消えてしまうと言う臭気漂う中を進んだ少年達の心境はどんなものだったでしょうか。神秘とされていたことを解き明かすことをためらったという、島根町瀬崎の故小野啓次郎氏が書き残された探検記です。華蔵寺の言い伝えでも、漁船が枕木山の明かりを頼りに航行していたと伝わっており、海運時代の日本海と神社仏閣の密接な関係を示しています。
海を臨む小高い丘の上にあり「津上」神社の名に相応しい神社である
現在、沖泊の津上神社は海を臨む小高い丘の上にあり「津上」神社の名に相応しい神社である。「津上」の社名は鹿島町手結にも見えたところである。「津上」は本来的には「津神」であろう。享保二(一七一七)年の『雲陽誌』島根郡野波浦の項には「津守明神」とみえている。「守」は「かみ」とも読み、「津上」「津神」「津守」とも「つがみ」と読むのであろう。不思議にもどの社名も受け入れる神社である。
尚、御祭神は瀬織津彦神・瀬織津姫神とされている。いわゆる記紀神話には登場しない神であるが、『延喜式』にみえる大祓祝詞に登場する。「瀬織津」の神名からして水にかかわる神であり、始源的には「川瀬」に坐す神で穢れを「大海原」に流し去る神とされている。鎮座地の「大海」は嬉しい字名である。沖泊の港を守る津の神として相応しい。社伝では元禄年間に多古と同じく津和野藩の家老多古外記左衛門丞が勧請したという。
男神の「瀬織津彦神」は知る神ではなく、『延喜式』にはみえず、ただ沖泊で生まれた神なのであろうか。大変気になるところである。
浦名 |
沖泊浦(おきどまりうら) |
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神社名 | 津上神社 |
祭神 | 瀬織津彦神 瀬織津姫神 |
所在地 | 松江市島根町多古1286 |
沖泊浦日御崎神社
海原(うなばら)や 沖泊(おきどまり)する釣舟(つりぶね)の
汀(みぎわ)にかえる あけぼのの空(そら)
沖泊の津上神社は、マリンパーク多古鼻の大きな立看板を左手に見ながら、港に向かって降りて行くとその谷間の右手の中腹海に背を向けて鎮座しています。参道に当たる路面がカラーブロックで敷き詰められていますので道案内をしてくれます。この神社も多胡八幡と同様に、津和野藩の多古家老が勧請したとの伝説には驚きます。
沖泊の港で恒例の歳徳神宮練が行われますが、ここでも大人が神輿の若い担ぎ手に「もっと回せ」と気合の入った師堂があり、祭礼継承の儀式でした。この宮練が行われる港には、今は休館中のスクーバダイビング教室があり、潜ればピンクのサンゴも見ることが出来ると聞きました。
集落の入口にはトイレ・駐車場がありますが、その脇道の先には「潮掻き穴」と呼ばれる洞窟があります。近親者がなくなり四十九日の忌明けにはここで潮掻きをすることとされていましたが、今は道路整備の為、簡単に下りることが出来ず、他の浦々で潮汲みを続けていると聞きました。この洞窟にはその昔枕木山を越えた南側の松江市長海町辺りで生まれ育ったと言う武蔵坊弁慶が眼病の為四十二浦巡りをして、最後にこの洞窟で潮汲みをして、平癒したと伝わっています。
また、沖泊の東南の海岸には、「多古の七つ穴」と云う名所があり、ここには「枕木穴」と呼ばれる洞窟があって、華蔵寺のある枕木山に繋がっていて、華蔵寺で祭礼などあると米のとぎ汁が流れてきたという伝説もあります。
しかし、今からおよそ八十年前の昭和四年頃若者四人が船を仕立ててこの「枕木穴」と呼ばれる洞窟の探検を行いましたが、結局八十mばかりで行き止まりになっていたと言うことでした。三十mばかりで辺りは暗闇となり、蝙蝠がうごめきろうそくの灯が自然に消えてしまうと言う臭気漂う中を進んだ少年達の心境はどんなものだったでしょうか。神秘とされていたことを解き明かすことをためらったという、島根町瀬崎の故小野啓次郎氏が書き残された探検記です。華蔵寺の言い伝えでも、漁船が枕木山の明かりを頼りに航行していたと伝わっており、海運時代の日本海と神社仏閣の密接な関係を示しています。
海を臨む小高い丘の上にあり「津上」神社の名に相応しい神社である
現在、沖泊の津上神社は海を臨む小高い丘の上にあり「津上」神社の名に相応しい神社である。「津上」の社名は鹿島町手結にも見えたところである。「津上」は本来的には「津神」であろう。享保二(一七一七)年の『雲陽誌』島根郡野波浦の項には「津守明神」とみえている。「守」は「かみ」とも読み、「津上」「津神」「津守」とも「つがみ」と読むのであろう。不思議にもどの社名も受け入れる神社である。
尚、御祭神は瀬織津彦神・瀬織津姫神とされている。いわゆる記紀神話には登場しない神であるが、『延喜式』にみえる大祓祝詞に登場する。「瀬織津」の神名からして水にかかわる神であり、始源的には「川瀬」に坐す神で穢れを「大海原」に流し去る神とされている。鎮座地の「大海」は嬉しい字名である。沖泊の港を守る津の神として相応しい。社伝では元禄年間に多古と同じく津和野藩の家老多古外記左衛門丞が勧請したという。
男神の「瀬織津彦神」は知る神ではなく、『延喜式』にはみえず、ただ沖泊で生まれた神なのであろうか。大変気になるところである。