菅浦

浦名 菅浦(須気浦)(すげうら)
神社名 須義神社
祭神 猿田比古神
応神天皇
所在地 松江市美保関町菅浦289

須気浦新宮神社   

諸(もろもろ)のさわり けがれを今更(いまさら)に
             須々気(すすげ)うらはの  清(きよ)き汀(みぎわ)に

須義浜 蓮華祭の悪切り
蓮華祭 地区内巡幸

菅浦須義神社は、松江・美保関線の長見神社辺りを通り過ぎて美保関町総合運動公園手前の信号機付きの丁字路を左手「北浦方面」へと進みます。そして道路の途中右手の七類方面へ入り、案内看板に従い、少し狭くなった道路に入り少し進んだあたりにあります。川沿いにさらに進むと海が開けて、きれいな砂浜の「須義浜」の海水浴場があります。須義神社の前の川には津和野の町中を泳ぐ鯉に負けないほどの大きな鯉が泳いでいます。菅浦では昭和五八年に町おこしのため須義神社にちなみ「須義の子会」を立ち上げて、この鯉の放流も始めたと云うことでした。

流行病を刀で切って直したと云う伝説にもとづく「悪切り」を、須義浜で七月中旬の日曜日に開く祇園祭で再開したのもこの時です。祇園祭では、子供神輿も繰り出し、集落を練り歩き須義浜に集まります。大人の神輿は、海に入り、禊をしますが、今年嫁を貰った者、区長など役員と一般の希望者は海に投げ込まれ、禊を受けます。この杉の子会のまちおこし活動は須義神社横のふれあい会館運営に継承されています。平成十九年の須義神社の遷宮の時には、神社の修繕端材に焼印を押して集落の各家庭に記念として配布するなど神社と住民の一体感を醸し出す丁寧な気配りをされていました。鯉の泳ぐ川を下ると「阿弥陀堂」があり、昔は巡礼の宿として提供されたものかと思われる広さです。祇園祭でいただいた天草から作った二倍酢の「ところてん」はとても美味しいものでした。千酌のところてんは、本庄町の「道の駅弁慶の里」で販売されていて、時々行くと売り切れるほどの人気です。ところてんを板チョコのような厚さに切り分けて、きな粉をまぶして食べるというのも記憶に残りました。
阿弥陀堂

「須気」浦は菅浦であり、古く『出雲国風土記』にも「須義浜」として登場している

阿弥陀堂 如来坐像

「須気」浦は菅浦であり、古く『出雲国風土記』にも「須義浜」として登場している。また「須義社」の存在も報告されている。現在、菅浦には風土記の「須義社」の後裔とされる須義神社が公民館に隣接して鎮座している。 

問題の「新宮神社」であるが、『雲陽誌』の菅浦項には先ず「神畑明神」が挙げられ次に「新宮」とだけ見える。 

明治8年の皇国地誌によれば菅浦の神社は二社であり、「須義神社」と「新宮神社」が報告されている。それによれば「新宮神社」は村の南800メートル、祭神は伊弉諾尊・速玉之男・事解之男伊であり、「須義神社」は浦から100メートル、祭神は猿田彦・誉田別尊となっている。現在、「新宮神社」は道路敷設により、須義神社に合祀される今日に至っている。 

当初の浦巡りでは新宮神社が対象地であったが、浜から離れた山間部にあり、後には浜から近い神社に信仰対象は変わったようである。文久年間の金崎善平一行が参拝したのは「神畑神社」であった。それが現在の須義神社である。それを物語るように現須義神社の祭神は十一柱であり、その中には新宮神社の三神も含まれている。(関 和彦)

神社前の川の鯉の群れ
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浦名 菅浦(須気浦)(すげうら)
神社名 須義神社
祭神 猿田比古神
応神天皇
所在地 松江市美保関町菅浦289

須気浦新宮神社   

諸(もろもろ)のさわり けがれを今更(いまさら)に
             須々気(すすげ)うらはの  清(きよ)き汀(みぎわ)に

現地までのアクセス
浦巡りガイド

菅浦須義神社は、松江・美保関線の長見神社辺りを通り過ぎて美保関町総合運動公園手前の信号機付きの丁字路を左手「北浦方面」へと進みます。そして道路の途中右手の七類方面へ入り、案内看板に従い、少し狭くなった道路に入り少し進んだあたりにあります。川沿いにさらに進むと海が開けて、きれいな砂浜の「須義浜」の海水浴場があります。須義神社の前の川には津和野の町中を泳ぐ鯉に負けないほどの大きな鯉が泳いでいます。菅浦では昭和五八年に町おこしのため須義神社にちなみ「須義の子会」を立ち上げて、この鯉の放流も始めたと云うことでした。

流行病を刀で切って直したと云う伝説にもとづく「悪切り」を、須義浜で七月中旬の日曜日に開く祇園祭で再開したのもこの時です。祇園祭では、子供神輿も繰り出し、集落を練り歩き須義浜に集まります。大人の神輿は、海に入り、禊をしますが、今年嫁を貰った者、区長など役員と一般の希望者は海に投げ込まれ、禊を受けます。この杉の子会のまちおこし活動は須義神社横のふれあい会館運営に継承されています。平成十九年の須義神社の遷宮の時には、神社の修繕端材に焼印を押して集落の各家庭に記念として配布するなど神社と住民の一体感を醸し出す丁寧な気配りをされていました。鯉の泳ぐ川を下ると「阿弥陀堂」があり、昔は巡礼の宿として提供されたものかと思われる広さです。祇園祭でいただいた天草から作った二倍酢の「ところてん」はとても美味しいものでした。千酌のところてんは、本庄町の「道の駅弁慶の里」で販売されていて、時々行くと売り切れるほどの人気です。ところてんを板チョコのような厚さに切り分けて、きな粉をまぶして食べるというのも記憶に残りました。
ENGLISH PAGE
須義浜 蓮華祭の悪切り
蓮華祭 地区内巡幸
阿弥陀堂
阿弥陀堂 如来坐像
神社前の川の鯉の群れ

「須気」浦は菅浦であり、古く『出雲国風土記』にも「須義浜」として登場している

「須気」浦は菅浦であり、古く『出雲国風土記』にも「須義浜」として登場している。また「須義社」の存在も報告されている。現在、菅浦には風土記の「須義社」の後裔とされる須義神社が公民館に隣接して鎮座している。 

問題の「新宮神社」であるが、『雲陽誌』の菅浦項には先ず「神畑明神」が挙げられ次に「新宮」とだけ見える。 

明治8年の皇国地誌によれば菅浦の神社は二社であり、「須義神社」と「新宮神社」が報告されている。それによれば「新宮神社」は村の南800メートル、祭神は伊弉諾尊・速玉之男・事解之男伊であり、「須義神社」は浦から100メートル、祭神は猿田彦・誉田別尊となっている。現在、「新宮神社」は道路敷設により、須義神社に合祀される今日に至っている。 

当初の浦巡りでは新宮神社が対象地であったが、浜から離れた山間部にあり、後には浜から近い神社に信仰対象は変わったようである。文久年間の金崎善平一行が参拝したのは「神畑神社」であった。それが現在の須義神社である。それを物語るように現須義神社の祭神は十一柱であり、その中には新宮神社の三神も含まれている。(関 和彦)