手結浦

浦名 手結浦(たゆ、たえのうら)
神社名  津上神社
祭神  速秋津日子神・速秋津比賣神
所在地  松江市鹿島町手結1222

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手結浦

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勤王の志士宅間樊六遭難記念碑

 手結の浦には、日向穴、塩穴と呼ばれる忌明けの為の潮汲み場があり、雲陽誌にも記載されています。「たゆ」は手湯であり、潔斎を行う場所にふさわしいからとされています。かつては、津上神社の山の北側下辺りに塩穴の洞窟があったと聞きましたが、西側の寺島に橋を渡す工事の時に埋められて、今は橋の東側の岩場に「アナシオ」と刻まれた石柱が置かれています。

 手結のとんどは、わら舟を作り、海に流すものですが、竜神さんの社は津上神社の向かい側の丘の大日堂の左手にあり、忌明けに汐汲みした竹筒はここに納められます。

 この大日堂付近は、幕末に因藩(鳥取県)の勤皇の志士として活躍し、鞍馬天狗のモデルと云われた宅間樊六(はんろく)他五名の最後の場所であり、集落の中ほどにある禅慶院の裏山の頂上には、墓と記念碑が建立されており、ふもとには、所持していた刀剣等が展示・保存されている記念館があります。宅間樊六一行は、鳥取市と米子市の中間の湯梨浜町から美保関を経由して長州を目指し、航行の途中片句に立ち寄ったとされています。鳥取県ではこの志士を顕彰する「因藩二十士伝」等の著作物が刊行されており、手結浦の事件は鳥取県で有名のようです。長州に立つ前宅間樊六らが幽閉されていた鳥取県の日野町黒坂の泉龍寺には、志士の位牌・遺品等大切に保存されています。

 大日堂の上がり口には、ジュース・キャンディ等日常生活用品を並べる商店があります。

鳥取県日野町泉龍寺 写真

「浦」を見守るように津上神社は集落の中ほど宮山に鎮座している

アナシヲ 石柱

「手結浦」はその字句のまま『出雲国風土記』に「手結浦 広さ三十二歩なり(船二つばかり泊つべし)」と姿をみせる由緒正しき「浦」である。入江の水深が深く構造船が停泊できたのであろう。手結「浦」はそれほど深く湾入はしていないが、風が寄せる北西には寺島が配置されており、自然の良港を形成している。「手結」は「たえ」であるが、その「え」は「江」と思われる。

 『出雲国風土記』島根郡条の神社名の中に「手結浦」鎮座する神社はみえないが。島根郡条の神社は十社欠落しており、重要な「浦」であった「手結浦」には神社があったとみるべきであろう。可能性としては他の社名を勘案すると「手結社」の可能性が高い。

 その「浦」を見守るように津上神社は集落の中ほど宮山に鎮座している。享保年間の『雲陽誌』には「津神明神」としてみえ、「社の西に岩穴あり土人穴塩といふ。高さ七尺横三尺入十五間あり、此所にて諸人潮を汲み不浄を掃ひ清め」とみえ、汐汲み信仰習俗の一端が報告されている。

 祭神の「速秋津日子神・速秋津比売神」はイザナギ・イザナミの御子神であり、「水戸神(みなとのかみ)」と呼ばれ、水の神、入江(湊)の神である。手結の集落に相応しい神である。

アナシヲから島根半島西側の眺望
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浦名 手結浦(たゆ、たえのうら)
神社名  津上神社
祭神  速秋津日子神・速秋津比賣神
所在地  松江市鹿島町手結1222

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現地までのアクセス
浦巡りガイド

 手結の浦には、日向穴、塩穴と呼ばれる忌明けの為の潮汲み場があり、雲陽誌にも記載されています。「たゆ」は手湯であり、潔斎を行う場所にふさわしいからとされています。かつては、津上神社の山の北側下辺りに塩穴の洞窟があったと聞きましたが、西側の寺島に橋を渡す工事の時に埋められて、今は橋の東側の岩場に「アナシオ」と刻まれた石柱が置かれています。

 手結のとんどは、わら舟を作り、海に流すものですが、竜神さんの社は津上神社の向かい側の丘の大日堂の左手にあり、忌明けに汐汲みした竹筒はここに納められます。

 この大日堂付近は、幕末に因藩(鳥取県)の勤皇の志士として活躍し、鞍馬天狗のモデルと云われた宅間樊六(はんろく)他五名の最後の場所であり、集落の中ほどにある禅慶院の裏山の頂上には、墓と記念碑が建立されており、ふもとには、所持していた刀剣等が展示・保存されている記念館があります。宅間樊六一行は、鳥取市と米子市の中間の湯梨浜町から美保関を経由して長州を目指し、航行の途中片句に立ち寄ったとされています。鳥取県ではこの志士を顕彰する「因藩二十士伝」等の著作物が刊行されており、手結浦の事件は鳥取県で有名のようです。長州に立つ前宅間樊六らが幽閉されていた鳥取県の日野町黒坂の泉龍寺には、志士の位牌・遺品等大切に保存されています。

 大日堂の上がり口には、ジュース・キャンディ等日常生活用品を並べる商店があります。

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勤王の志士宅間樊六遭難記念碑
鳥取県日野町泉龍寺 写真
アナシヲ 石柱
アナシヲから島根半島西側の眺望

「浦」を見守るように津上神社は集落の中ほど宮山に鎮座している

「手結浦」はその字句のまま『出雲国風土記』に「手結浦 広さ三十二歩なり(船二つばかり泊つべし)」と姿をみせる由緒正しき「浦」である。入江の水深が深く構造船が停泊できたのであろう。手結「浦」はそれほど深く湾入はしていないが、風が寄せる北西には寺島が配置されており、自然の良港を形成している。「手結」は「たえ」であるが、その「え」は「江」と思われる。

 『出雲国風土記』島根郡条の神社名の中に「手結浦」鎮座する神社はみえないが。島根郡条の神社は十社欠落しており、重要な「浦」であった「手結浦」には神社があったとみるべきであろう。可能性としては他の社名を勘案すると「手結社」の可能性が高い。

 その「浦」を見守るように津上神社は集落の中ほど宮山に鎮座している。享保年間の『雲陽誌』には「津神明神」としてみえ、「社の西に岩穴あり土人穴塩といふ。高さ七尺横三尺入十五間あり、此所にて諸人潮を汲み不浄を掃ひ清め」とみえ、汐汲み信仰習俗の一端が報告されている。

 祭神の「速秋津日子神・速秋津比売神」はイザナギ・イザナミの御子神であり、「水戸神(みなとのかみ)」と呼ばれ、水の神、入江(湊)の神である。手結の集落に相応しい神である。