片江浦
浦名 | 片江浦(かたえうら) |
---|---|
神社名 | 方結神社 |
祭神 | 安閑天皇
愛鬘命 |
所在地 | 松江市美保関町片江721 |
片江浦蔵王権現
誠(まこと)あるかたへと 祈(いの)る心(こころ)には
浮世(うきよ)のちりも あらじと思(おも)う
松江市片江の墨付けはテレビに放映されるなど季節の風物詩として有名です。住民の健康と家内安全を祈り神輿が町内を練り歩きますが、女性達が墨をたっぷりつけた筆(大根)で町内外の人々の顔に塗りつけるというものです。毎年一月(平成28年は1月10日(日)の11時に歳徳神の神輿が神社を出ます。)のとんどでは、最後に方結神社が昔鎮座していたとされる小山の裏の海に入って二基の歳徳神神輿を担ぎながら海水を掛け合う光景は勇壮と言うほかなく、寒さを忘れます。
この神輿は、江戸時代後期一七八〇年に作られ、修理を重ねて今に伝わると聞きました。太平洋戦争終了後の昭和二十八年まではだんじり一基の巡行もあったとのことでした。この墨付けは、七月の第四日曜日の「でき正月」(虫干し神事)でも行われています。
十月十四日の方結神社の例祭では、小学生の女子が浦安の歌を唄い、女子中学生が巫女の正装で「浦安の舞」を踊ります。「浦安の舞」は、美保神社、恵曇神社でも拝見しました。また、同じ日、境内の相撲場では、小学生が男女混じり合い、奉納相撲を行います。暮れの押し詰まった十二月二六日に祭神が浦に上がられたが、どの家でも正月の準備が終わっているため、十歳までの子供たちが膝で餅をついてもてなしたことから始まった「膝餅神事」が神社拝殿(9時過ぎに始まります。)で行われます。
元の神社の場所を示す「方結神社御鎮座古跡地」は、片江港の中ほどの小山の上にあります。その下を通る道路が出来る前は海に浮かぶ小島だったと聞きました。
※10月14日午後2時頃から例祭があり、その後「浦安の舞」が奉納されます。片江浦、字は異なるが『出雲国風土記』に「方結郷」、そして「方結浜」、また「方結社」とみえる
片江浦、字は異なるが『出雲国風土記』に「方結郷」、そして「方結浜」、また「方結社」とみえる。享保二年の『雲陽誌』には「蔵王権現・勝手明神 二神相殿なり、蔵王権現は安閑天皇、勝手明神は愛鬘命を祭」とみえている。他に注目すべき神社として「宇塚明神」がみえ、祭神を「国忍別命」とし、風土記の「方結社」ではないかとしている。文久三年の金崎善平一行は「勝手明神」を拝んでいるが、「蔵王権現」と相殿とあるので同じ神社と思われる。
その蔵王・勝手の相殿の神社の社名は見出すことができない。 現在、片江地域の神社としては片江集落内の「方結神社」と海岸の「宇塚神社」の二社である。蔵王権現はそのどちらかに結びつくのであろう。
ここで明治八年の皇国地誌をめくると片江浦には「片結神社」の他に「上戸(かみと)神社」がみえ、上戸神社の祭神として「安閑天皇・愛鬘命」が挙げられている。四十二浦の対象の神社、蔵王権現の社名は実に「上戸神社」であった。問題は上戸神社の現在であるが、実は現在の方結神社の鎮座地は字・「上谷(かみだん)」であり、上戸神社の鎮座地であり、古代の方結神社は海岸の宇塚神社であったと思われる。明治四十四年に方結神社に上戸神社の神々を合祀し、そして上戸神社を方結神社としたのである。
海岸の宇塚神社の境内に「方結神社御鎮座古跡地」の石碑がその事情を物語っているのであろう。(関 和彦)
浦名 | 片江浦(かたえうら) |
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神社名 | 方結神社 |
祭神 | 安閑天皇
愛鬘命 |
所在地 | 松江市美保関町片江721 |
片江浦蔵王権現
誠(まこと)あるかたへと 祈(いの)る心(こころ)には
浮世(うきよ)のちりも あらじと思(おも)う
松江市片江の墨付けはテレビに放映されるなど季節の風物詩として有名です。住民の健康と家内安全を祈り神輿が町内を練り歩きますが、女性達が墨をたっぷりつけた筆(大根)で町内外の人々の顔に塗りつけるというものです。毎年一月(平成28年は1月10日(日)の11時に歳徳神の神輿が神社を出ます。)のとんどでは、最後に方結神社が昔鎮座していたとされる小山の裏の海に入って二基の歳徳神神輿を担ぎながら海水を掛け合う光景は勇壮と言うほかなく、寒さを忘れます。
この神輿は、江戸時代後期一七八〇年に作られ、修理を重ねて今に伝わると聞きました。太平洋戦争終了後の昭和二十八年まではだんじり一基の巡行もあったとのことでした。この墨付けは、七月の第四日曜日の「でき正月」(虫干し神事)でも行われています。
十月十四日の方結神社の例祭では、小学生の女子が浦安の歌を唄い、女子中学生が巫女の正装で「浦安の舞」を踊ります。「浦安の舞」は、美保神社、恵曇神社でも拝見しました。また、同じ日、境内の相撲場では、小学生が男女混じり合い、奉納相撲を行います。暮れの押し詰まった十二月二六日に祭神が浦に上がられたが、どの家でも正月の準備が終わっているため、十歳までの子供たちが膝で餅をついてもてなしたことから始まった「膝餅神事」が神社拝殿(9時過ぎに始まります。)で行われます。
元の神社の場所を示す「方結神社御鎮座古跡地」は、片江港の中ほどの小山の上にあります。その下を通る道路が出来る前は海に浮かぶ小島だったと聞きました。
※10月14日午後2時頃から例祭があり、その後「浦安の舞」が奉納されます。片江浦、字は異なるが『出雲国風土記』に「方結郷」、そして「方結浜」、また「方結社」とみえる
片江浦、字は異なるが『出雲国風土記』に「方結郷」、そして「方結浜」、また「方結社」とみえる。享保二年の『雲陽誌』には「蔵王権現・勝手明神 二神相殿なり、蔵王権現は安閑天皇、勝手明神は愛鬘命を祭」とみえている。他に注目すべき神社として「宇塚明神」がみえ、祭神を「国忍別命」とし、風土記の「方結社」ではないかとしている。文久三年の金崎善平一行は「勝手明神」を拝んでいるが、「蔵王権現」と相殿とあるので同じ神社と思われる。
その蔵王・勝手の相殿の神社の社名は見出すことができない。 現在、片江地域の神社としては片江集落内の「方結神社」と海岸の「宇塚神社」の二社である。蔵王権現はそのどちらかに結びつくのであろう。
ここで明治八年の皇国地誌をめくると片江浦には「片結神社」の他に「上戸(かみと)神社」がみえ、上戸神社の祭神として「安閑天皇・愛鬘命」が挙げられている。四十二浦の対象の神社、蔵王権現の社名は実に「上戸神社」であった。問題は上戸神社の現在であるが、実は現在の方結神社の鎮座地は字・「上谷(かみだん)」であり、上戸神社の鎮座地であり、古代の方結神社は海岸の宇塚神社であったと思われる。明治四十四年に方結神社に上戸神社の神々を合祀し、そして上戸神社を方結神社としたのである。
海岸の宇塚神社の境内に「方結神社御鎮座古跡地」の石碑がその事情を物語っているのであろう。(関 和彦)