鰐淵寺
寺院名 | 浮浪山 鰐淵寺 |
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所在地 | 出雲市別所町148 |
芭蕉は辞世の句として「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」を詠んでいます。訪ねた時が、紅葉等の葉がすべて落ちていたときなので、栄えていた頃の堂宇の跡が、山裾に向かって整然と並んでいるので、前記芭蕉の句の後段の枯野をふと思いました。繁栄の頃を偲ばせる堂々とした風景です。
鰐渕寺の本堂は、実に古刹と云うにふさわしい幾星霜の歴史を刻む姿で、奈良・京都の寺院のように立派なものです。また、本堂の左手には一段高くなった敷地に「摩(ま)多(だ)(蛇)羅(ら)社」が並び建っていて、奈良の古刹ではお寺の仕切りの外に神棚などが並んでいたのですか、ここは神仏習合の言葉を感じさせる形になっています。
また、鰐淵寺境内は、江戸期の伽藍建築をはじめ、多数の寺宝を蔵し、発掘調査の結果中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存していることが評価され、中国地方を代表する山林寺院として、平成二十八年三月一日に国史跡に指定されました。
弁慶の心が宿る山陰の名刹
(歴史の足跡)
今に残る四十二浦の垢離取歌、冒頭の文は武蔵坊弁慶のものとされている。弁慶と四十二浦、何処で結ばれたのであろうか。山陰の名刹、浮浪山鰐淵寺。天台宗の寺院、寺伝ではその創建は推古天皇の時代、智春上人の開基という。不思議にも『出雲国風土記』には姿を見せないが、寺宝の持統天皇六年(六九二)の壬辰年在銘青銅観音菩薩像の伝来は鰐淵寺の歴史の古さを物語る。
鰐淵寺は浮浪滝を中心とした修験信仰、そして観音・薬師信仰を合わせ持ち発展し、平安時代、天台座主慈覚大師の折に天台の教義の下、末寺となったという。鎌倉時代には出雲大社との習合を確立し別当寺として隆盛を極めた。
尚、弁慶は松江の東部、中海北岸の長海に生まれ、島根半島の枕木山の華蔵寺、福原の澄水寺、そして鰐淵寺で修行したと言い伝えられている。その若き弁慶の修行の足跡はあたかも四十二浦巡りの山岳コースとなっている。垢離取歌と弁慶の関係は遠くそのようなところにあったのであろうか。
今、弁慶誕生地という長海の地には道の駅・本庄が開設され、弁慶を偲ぶことが出来る。寺院名 | 浮浪山 鰐淵寺 |
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所在地 | 出雲市別所町148 |
芭蕉は辞世の句として「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」を詠んでいます。訪ねた時が、紅葉等の葉がすべて落ちていたときなので、栄えていた頃の堂宇の跡が、山裾に向かって整然と並んでいるので、前記芭蕉の句の後段の枯野をふと思いました。繁栄の頃を偲ばせる堂々とした風景です。
鰐渕寺の本堂は、実に古刹と云うにふさわしい幾星霜の歴史を刻む姿で、奈良・京都の寺院のように立派なものです。また、本堂の左手には一段高くなった敷地に「摩(ま)多(だ)(蛇)羅(ら)社」が並び建っていて、奈良の古刹ではお寺の仕切りの外に神棚などが並んでいたのですか、ここは神仏習合の言葉を感じさせる形になっています。
また、鰐淵寺境内は、江戸期の伽藍建築をはじめ、多数の寺宝を蔵し、発掘調査の結果中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存していることが評価され、中国地方を代表する山林寺院として、平成二十八年三月一日に国史跡に指定されました。
弁慶の心が宿る山陰の名刹
(歴史の足跡)
今に残る四十二浦の垢離取歌、冒頭の文は武蔵坊弁慶のものとされている。弁慶と四十二浦、何処で結ばれたのであろうか。山陰の名刹、浮浪山鰐淵寺。天台宗の寺院、寺伝ではその創建は推古天皇の時代、智春上人の開基という。不思議にも『出雲国風土記』には姿を見せないが、寺宝の持統天皇六年(六九二)の壬辰年在銘青銅観音菩薩像の伝来は鰐淵寺の歴史の古さを物語る。
鰐淵寺は浮浪滝を中心とした修験信仰、そして観音・薬師信仰を合わせ持ち発展し、平安時代、天台座主慈覚大師の折に天台の教義の下、末寺となったという。鎌倉時代には出雲大社との習合を確立し別当寺として隆盛を極めた。
尚、弁慶は松江の東部、中海北岸の長海に生まれ、島根半島の枕木山の華蔵寺、福原の澄水寺、そして鰐淵寺で修行したと言い伝えられている。その若き弁慶の修行の足跡はあたかも四十二浦巡りの山岳コースとなっている。垢離取歌と弁慶の関係は遠くそのようなところにあったのであろうか。
今、弁慶誕生地という長海の地には道の駅・本庄が開設され、弁慶を偲ぶことが出来る。