魚瀬浦
浦名 | 魚瀬浦(おのぜうら) |
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神社名 | 八神神社 |
祭神 | 吾勝命 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 |
所在地 | 松江市魚瀬町1175 |
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八神神社は、伊野浦狭槌神社から東に向かい山を越えた辺りの三叉路を東に向かい(西に行くと平田方面)次の三叉路を左に進みます。日本海を左手に細い道を行き、集落中心を過ぎる辺りで、左に入り魚瀬郵便局を右手に下って行きます。道路が直線になった辺りの道路の下側に神社が見えます。魚瀬は、何処の道を通ってもたどり着き難い秘境の地でしたが、平成二十五年三月に魚瀬トンネルとえびすだいこく大橋が建設されたことにより、松江市秋鹿町からの道がとても入りやすく、格段に交通利便性が向上しました。ここから古浦天満宮に向かう時は、前記トンネルを通過して、大きな三叉路を左に入り、六坊トンネルに入り、東に向かい桜並木を過ぎたあたりで古浦に入ります。古浦天満宮は、古浦集落に入ってすぐ左手にあります。
魚瀬のとんどは、成人の日に行うこととされていて、えびす・だいこくを載せた模造船を漁師が竹で編みあげて飾り付け、歳徳神と共に町内を練り歩きます。その夜には神飾りを下ろし、船は木製の躯体を残して全て神送りとして焼き払います。
魚瀬では、八神神社の遷宮には、古来本家八軒の代表八人が御神体の神輿を担ぐしきたりが続いています。えびす・だいこくは、魚瀬の西と東の守り神とされ、またえびすさんは漁の神、だいこくさんは福の神として崇敬され、魚瀬トンネルに続く「えびすだいこく大橋」の名前の由来です。
また、十月十八日頃の秋の大祭には、例年大東町の神楽団に来てもらい榊を取りに行く「国譲り」等の奉納神楽が夜八時頃から十一時頃まで神楽殿であり、紅白の餅まきなどもあり沢山の人が観覧します。帰り道に振り返った集落の夜景は夢のような光景でした。
「おのぜ」の名はこの地域の古代の郷名「大野」に因むのであろう
「魚瀬」は「おのぜ」と読む。集落前面に女島、烏帽子岩などが浮かび、絶好の釣り場を提供しており、まさに「魚瀬」の名に相応しい浦といえよう。
しかし、「おのぜ」の名はこの地域の古代の郷名「大野」に因むのであろう。「おおの瀬」、あるいは「おおの背」が訛り、「おのぜ」となり、そして「魚瀬」という地名を産み出したと考えておきたい。
惠曇湾の西端からは楯縫郡に向けての海岸は『出雲国風土記』には「浦の西の磯から楯縫郡との堺の自毛埼に至る間、岩壁が高くけわしく、風が静かでも往来の船は船を寄せるところがない(意訳)」とされており、四十二浦巡りにおける東西移動の一番危険なところであったと思われる。現在も惠曇から海岸沿いに魚瀬までの自動車道は整備されていない。巡礼の厳しさを感じる空間である。
旧社名の「八王子権現」は享保年間の『雲陽誌』にすでに「八王子権現」とみえており、「八王子権現」から「八神神社」への改称は明治四年である。また風土記にもみえる「御島」に鎮座していた事代主神を祭る三島明神を明治四十五年に合祀している。幕末の松江藩を代表する歌人であった森為泰が万延二(一八六一)年に門人らと「御島」を訪れた際の紀行文『万延二年御島日記』が残されている。現在、三島明神は境内社として鎮座している。
何故、この地に八王子が祀られたかは不明であるが、その八神がこの地域の開拓神であるとの言い伝えがある。その八神とは、秀吉の朝鮮侵攻に従った水夫八人が魚瀬に流れ着き、それぞれが故郷の神を勧請し祭ったのが始まりという。今もその子孫の八家が集落を構成し、祭祀を行っていると聞く。
浦名 | 魚瀬浦(おのぜうら) |
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神社名 | 八神神社 |
祭神 | 吾勝命 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 |
所在地 | 松江市魚瀬町1175 |
八神神社は、伊野浦狭槌神社から東に向かい山を越えた辺りの三叉路を東に向かい(西に行くと平田方面)次の三叉路を左に進みます。日本海を左手に細い道を行き、集落中心を過ぎる辺りで、左に入り魚瀬郵便局を右手に下って行きます。道路が直線になった辺りの道路の下側に神社が見えます。魚瀬は、何処の道を通ってもたどり着き難い秘境の地でしたが、平成二十五年三月に魚瀬トンネルとえびすだいこく大橋が建設されたことにより、松江市秋鹿町からの道がとても入りやすく、格段に交通利便性が向上しました。ここから古浦天満宮に向かう時は、前記トンネルを通過して、大きな三叉路を左に入り、六坊トンネルに入り、東に向かい桜並木を過ぎたあたりで古浦に入ります。古浦天満宮は、古浦集落に入ってすぐ左手にあります。
魚瀬のとんどは、成人の日に行うこととされていて、えびす・だいこくを載せた模造船を漁師が竹で編みあげて飾り付け、歳徳神と共に町内を練り歩きます。その夜には神飾りを下ろし、船は木製の躯体を残して全て神送りとして焼き払います。
魚瀬では、八神神社の遷宮には、古来本家八軒の代表八人が御神体の神輿を担ぐしきたりが続いています。えびす・だいこくは、魚瀬の西と東の守り神とされ、またえびすさんは漁の神、だいこくさんは福の神として崇敬され、魚瀬トンネルに続く「えびすだいこく大橋」の名前の由来です。
また、十月十八日頃の秋の大祭には、例年大東町の神楽団に来てもらい榊を取りに行く「国譲り」等の奉納神楽が夜八時頃から十一時頃まで神楽殿であり、紅白の餅まきなどもあり沢山の人が観覧します。帰り道に振り返った集落の夜景は夢のような光景でした。
「おのぜ」の名はこの地域の古代の郷名「大野」に因むのであろう
「魚瀬」は「おのぜ」と読む。集落前面に女島、烏帽子岩などが浮かび、絶好の釣り場を提供しており、まさに「魚瀬」の名に相応しい浦といえよう。
しかし、「おのぜ」の名はこの地域の古代の郷名「大野」に因むのであろう。「おおの瀬」、あるいは「おおの背」が訛り、「おのぜ」となり、そして「魚瀬」という地名を産み出したと考えておきたい。
惠曇湾の西端からは楯縫郡に向けての海岸は『出雲国風土記』には「浦の西の磯から楯縫郡との堺の自毛埼に至る間、岩壁が高くけわしく、風が静かでも往来の船は船を寄せるところがない(意訳)」とされており、四十二浦巡りにおける東西移動の一番危険なところであったと思われる。現在も惠曇から海岸沿いに魚瀬までの自動車道は整備されていない。巡礼の厳しさを感じる空間である。
旧社名の「八王子権現」は享保年間の『雲陽誌』にすでに「八王子権現」とみえており、「八王子権現」から「八神神社」への改称は明治四年である。また風土記にもみえる「御島」に鎮座していた事代主神を祭る三島明神を明治四十五年に合祀している。幕末の松江藩を代表する歌人であった森為泰が万延二(一八六一)年に門人らと「御島」を訪れた際の紀行文『万延二年御島日記』が残されている。現在、三島明神は境内社として鎮座している。
何故、この地に八王子が祀られたかは不明であるが、その八神がこの地域の開拓神であるとの言い伝えがある。その八神とは、秀吉の朝鮮侵攻に従った水夫八人が魚瀬に流れ着き、それぞれが故郷の神を勧請し祭ったのが始まりという。今もその子孫の八家が集落を構成し、祭祀を行っていると聞く。