宇龍浦
浦名 | 宇龍浦(うりゅううら) |
---|---|
神社名 | 【旧社名】橋姫大明神 【現社名】熊野神社 |
祭神 | 伊奘册尊(いざなみのみこと) 速玉男(はやたまを) 事解男(ことさかを) |
所在地 | 出雲市大社町宇龍 権現島 |
諸人(もろびと)の頼(たのみ)をかけし橋姫(はしひめ)の 誓(ちかい)もふかき港(みなと)なるらん
和布刈神事は、旧暦の一月五日、およそ二月頃に、ウミネコの逸話にちなみ権現島で採取した和布を日御碕神社に奉納し、合わせて漁民の安全・大漁を祈願します。旧暦正月の神事は、熊野神社がある権現島まで、船を十二隻並べてその先の島までは裸の男たちが海中から船を引き、橋板を渡して日御碕神社の神主を島に渡し和布を刈るというものです。この頃からワカメ漁が始まると言うことで、ブランド「日御碕わかめ」が生産・販売されますが、ことに「板わかめ」は出雲地方になじみのもので、炬燵にあたりながら火にあぶってパリパリと食べ、少し塩っぽい茎などをしゃぶったことを思い出します。2023年の旧暦1月5日は1月26日(木)となります。コロナ退散を祈るばかりです。
十月の第三土曜日の例祭では、船は権現島まで渡されて一般参拝者も熊野神社をまじかに参拝出来ます。女性の権現島への立ち入り禁忌となっています。普段は船で渡る必要があるため、誰でも簡単には立ち入れません。
宇龍港は、その昔北前船が立ち寄り栄えた地域で、今でも加賀屋・肥後屋等の屋号を持つ家があり鷺浦と同様に整然とした街並みが残っています。
熊野神社は宇龍港内の権現島に鎮座する日御碕神社境外摂社である
熊野神社は宇竜港内の権現島に鎮座する日御碕神社境外摂社である。はたして「橋姫大明神」が現在の熊野神社であるかどうか明証はない。しかし、宇龍地域には熊野神社の他には小社の荒魂神社しかなく、江戸時代の『雲陽誌』にもみえる古社の熊野「権現」、現熊野神社が「橋姫大明神」の後継と考えて間違いないであろう。
熊野」「橋姫」では余りにも社名に違和感がある。「橋姫」とは何であろうか。熊野神社には古伝の和布刈(めかり・若布の採集)神事があり、湾岸から祭場の熊野神社鎮座の権現島には船を介して板橋が架けられ、祭主の日御碕宮司がその橋を渡り祭祀を行うことになっている。その「橋」に因む名前であろうか。
また「和布」というと松江市白潟の売布神社が思い出される。実は売布神社は古く江戸時代には「橋姫大明神」と呼ばれていた。「和布」と「橋」に関係があるのか気になるところである。 さて和布刈神事であるが、社伝によれば成務天皇六年一月五日、一羽のカモメが潮の滴る和布を口に加えて飛び来たりて神社の欄干に和布をかけて飛び去った。人々はその和布を真水で洗い神前に奉納したという故事に因んでいる。潮の滴る海草を採取し奉納するというその行為は四十二浦潮垢離の素朴な姿を思い起こさせる。
なお、「宇龍」は『出雲国風土記』に「宇禮保浦」とすでに見えている。地名は「宇禮保」の三文字であるが、「保」は美保・佐世保・釜山保にみられる「みなと」の意であり、本来は「宇禮」が地名であり、意味は「末(うれ)・裏(うら)」であり、大社の裏の保という意味ではなかろうか。(関 和彦)
浦名 | 宇龍浦(うりゅううら) |
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神社名 | 【旧社名】橋姫大明神 【現社名】熊野神社 |
祭神 | 伊奘册尊(いざなみのみこと) 速玉男(はやたまを) 事解男(ことさかを) |
所在地 | 出雲市大社町宇龍 権現島 |
諸人(もろびと)の頼(たのみ)をかけし橋姫(はしひめ)の 誓(ちかい)もふかき港(みなと)なるらん
和布刈神事は、旧暦の一月五日、およそ二月頃に、ウミネコの逸話にちなみ権現島で採取した和布を日御碕神社に奉納し、合わせて漁民の安全・大漁を祈願します。旧暦正月の神事は、熊野神社がある権現島まで、船を十二隻並べてその先の島までは裸の男たちが海中から船を引き、橋板を渡して日御碕神社の神主を島に渡し和布を刈るというものです。この頃からワカメ漁が始まると言うことで、ブランド「日御碕わかめ」が生産・販売されますが、ことに「板わかめ」は出雲地方になじみのもので、炬燵にあたりながら火にあぶってパリパリと食べ、少し塩っぽい茎などをしゃぶったことを思い出します。2023年の旧暦1月5日は1月26日(木)となります。コロナ退散を祈るばかりです。
十月の第三土曜日の例祭では、船は権現島まで渡されて一般参拝者も熊野神社をまじかに参拝出来ます。女性の権現島への立ち入り禁忌となっています。普段は船で渡る必要があるため、誰でも簡単には立ち入れません。
宇龍港は、その昔北前船が立ち寄り栄えた地域で、今でも加賀屋・肥後屋等の屋号を持つ家があり鷺浦と同様に整然とした街並みが残っています。
熊野神社は宇龍港内の権現島に鎮座する日御碕神社境外摂社である
熊野神社は宇竜港内の権現島に鎮座する日御碕神社境外摂社である。はたして「橋姫大明神」が現在の熊野神社であるかどうか明証はない。しかし、宇龍地域には熊野神社の他には小社の荒魂神社しかなく、江戸時代の『雲陽誌』にもみえる古社の熊野「権現」、現熊野神社が「橋姫大明神」の後継と考えて間違いないであろう。
熊野」「橋姫」では余りにも社名に違和感がある。「橋姫」とは何であろうか。熊野神社には古伝の和布刈(めかり・若布の採集)神事があり、湾岸から祭場の熊野神社鎮座の権現島には船を介して板橋が架けられ、祭主の日御碕宮司がその橋を渡り祭祀を行うことになっている。その「橋」に因む名前であろうか。
また「和布」というと松江市白潟の売布神社が思い出される。実は売布神社は古く江戸時代には「橋姫大明神」と呼ばれていた。「和布」と「橋」に関係があるのか気になるところである。 さて和布刈神事であるが、社伝によれば成務天皇六年一月五日、一羽のカモメが潮の滴る和布を口に加えて飛び来たりて神社の欄干に和布をかけて飛び去った。人々はその和布を真水で洗い神前に奉納したという故事に因んでいる。潮の滴る海草を採取し奉納するというその行為は四十二浦潮垢離の素朴な姿を思い起こさせる。
なお、「宇龍」は『出雲国風土記』に「宇禮保浦」とすでに見えている。地名は「宇禮保」の三文字であるが、「保」は美保・佐世保・釜山保にみられる「みなと」の意であり、本来は「宇禮」が地名であり、意味は「末(うれ)・裏(うら)」であり、大社の裏の保という意味ではなかろうか。(関 和彦)