野波浦
浦名 | 野波浦(のなみうら) |
---|---|
神社名 | 日御碕神社 |
祭神 | 天照大神 建速須佐之男命 |
所在地 | 松江市島根町野波3776 |
加賀神社から野波神社に至る旧道沿いにうねうねとつづく道路わきに、700本の桜並木が続いており、チェリーロードと呼ばれています。平成六年に「新・日本街路樹百景」に選定されており、四月初めの松江の春を実感する風物詩です。
野波日御碕神社に至るとやはり爛漫たる桜に覆われた社殿があり、チェリーロードの守護神のようです。
ここ日御碕神社では、正月七日に豊作と家内安全を祈念する「お田植え神事」があります。牛が舌のような大きな餅をくわえて拝殿内を歩き回り、シママツ(島松)(かつては「シバマキ」の葉と紹介していましたが、正しくはシママツ、シバマキはちまきづくりの葉であると聞きました。)の葉を撒き散らして老若男女が鍬に見立てた小さい餅を挟んだ竹でそれをたたくと言う賑やかな神事です。なごやかな雰囲気で外部参加者も一緒に楽しむことが出来ます。
また、毎年十月二三日には、「ガッチ祭り」という中学・高校生がお面をかぶり通行人もかまわず尻をたたくと言う行事があります。
「ガッチ祭り」は、明治四二年に野波の権現山にあった「日吉神社」が現在の「日御碕神社」に合祀されたのを機に、年に1回「日吉神社」の神様が元の地へ里帰りされる秋祭り「祇園社神幸祭」の別名だと言うことです。祭神のスサノオの神にちなみあらぶるのか、天照大神を守る警護役なのでしょうか。日吉神社周辺の古い地名に「カチ」が「島根町誌」にもありますが、「カチ」が「ガッチ」になるというこの地名に由来するのではないかとの説明がありました。
神社から野波海水浴場を通り過ぎる辺りに「島根町歴史民俗資料館」があります。忘れられたように佇んでいますが、中に入ると手作業時代の漁具・木偶・土偶など生活民具が約二千点収納されています。島根公民館にお願いして観覧することが出来ます。島根半島ではこのように民俗資料が大量に収集されているのは、「美保関歴史・生活体験資料館」、「大社町鵜鷺公民館資料室」の他は思い浮かびません。
◎松江市島根町野波の日御碕神社から南東側50m、枕木山華蔵寺への山道の入り口あたりに、古布等によるタペストリ-、袋物など、また陶芸作品を展示・販売する「サンビル 手仕事の館 和楽」が平成26年6月に開店しました。(コンクリート2階建て)
・四十二浦巡りのガイドブック・マップなどの販売もしています。コ—ヒ-、紅茶なども準備されていますので、浦巡りの休憩に利用できます。是非お立ち寄りください。コロナ禍で休店していますが、ガイドブック、休憩などご用は相談ください。
○開店は毎週、月・木・金・土・日曜日の10:00~15:00までです。手作り教室を開催していることがありますので、不在のときには0852-85-3042 携帯090-9730-4118 (余村美佐子さん)にご連絡ください。また、月に1回水菓子など手作り菓子を添えたお茶を楽しんで頂きます。(250円)
※平成28年4月2日から「春の和楽 ひな飾り・手作り人形展」を開催されます。4月3日(日)は、近くのチェリ-ロ-ドで、島根町の桜まつりも開催されます。
4月16(土)、17日(日)には、松江市の陶芸家(火の川焼)福島絵美氏の作品を展示・販売するほか、ル-ブル美術館グランプリを受賞、島根県ふるさと伝統工芸に認定された福島さんのギャラリ-ト-ク「海外陶芸等よもやま話」の時間(4/17の午後2時から)もあります。
海岸は三百七十メートルに及んだという。当時の野波の神社は浜の東に鎮座していたという
『出雲国風土記』をひもとくと野波は「野浪浜 広さ二百八十歩なり。東の辺に社あり。又、百姓の家あり。」とみえる。海岸は三百七十メートルに及んだという。当時の野波の神社は浜の東に鎮座していたという。
現在、その「野波浜」の海岸の一番西端に鎮座しているのが日御碕神社である。勧請時期は不明であるが、かつては海中の雄島に鎮座していたが、天正年間に大波の為に流され、現在地に漂着、鎮座という。大社町の日御碕神社から分霊を勧請したのはそれ以前ということになる。宝永年間の四十二浦巡りの巡礼者その「日御崎大神宮」を参拝していた。この日御碕神社は野波をはじめとして笠浦・瀬崎・佐陀本郷、また小さいながらも大芦・千酌にも勧請されている。その勧請事情、時代背景については未だ十分な考察がなされているわけではない。今後の課題となる。
幕末の文政年間に四十二浦巡りで野波を訪れた金崎善平一行が参拝したのは「須賀神社」であった。現在、その「須賀神社」は姿も名も野波から消えているが、かつて明治の終わりころまで現・公民館近くの字・前田に日吉神社の相殿として須賀保里神社が鎮座していたことが確認される。実は字名を構成している「前(まへ)」は単なる前後ではなく「神の前」を示す用語である。字・前田の「須賀保里」神社こそ須賀神社であろう。須賀保里神社は明治四十二(一九〇九)年に日吉神社とともに海岸西部の日御碕神社に遷座・合祀されたようである。しかし、現在、「須賀保里」神社の名は絶えたようである。この旧社地の前田は野波浜の「東の辺」にあたり、『出雲国風土記』にみえた「東の辺に社あり」に相当するのではなかろうか。忘れられた『出雲国風土記』の「努那彌社」の一社であろう。
浦名 | 野波浦(のなみうら) |
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神社名 | 日御碕神社 |
祭神 | 天照大神 建速須佐之男命 |
所在地 | 松江市島根町野波3776 |
加賀神社から野波神社に至る旧道沿いにうねうねとつづく道路わきに、700本の桜並木が続いており、チェリーロードと呼ばれています。平成六年に「新・日本街路樹百景」に選定されており、四月初めの松江の春を実感する風物詩です。
野波日御碕神社に至るとやはり爛漫たる桜に覆われた社殿があり、チェリーロードの守護神のようです。
ここ日御碕神社では、正月七日に豊作と家内安全を祈念する「お田植え神事」があります。牛が舌のような大きな餅をくわえて拝殿内を歩き回り、シママツ(島松)(かつては「シバマキ」の葉と紹介していましたが、正しくはシママツ、シバマキはちまきづくりの葉であると聞きました。)の葉を撒き散らして老若男女が鍬に見立てた小さい餅を挟んだ竹でそれをたたくと言う賑やかな神事です。なごやかな雰囲気で外部参加者も一緒に楽しむことが出来ます。
また、毎年十月二三日には、「ガッチ祭り」という中学・高校生がお面をかぶり通行人もかまわず尻をたたくと言う行事があります。
「ガッチ祭り」は、明治四二年に野波の権現山にあった「日吉神社」が現在の「日御碕神社」に合祀されたのを機に、年に1回「日吉神社」の神様が元の地へ里帰りされる秋祭り「祇園社神幸祭」の別名だと言うことです。祭神のスサノオの神にちなみあらぶるのか、天照大神を守る警護役なのでしょうか。日吉神社周辺の古い地名に「カチ」が「島根町誌」にもありますが、「カチ」が「ガッチ」になるというこの地名に由来するのではないかとの説明がありました。
神社から野波海水浴場を通り過ぎる辺りに「島根町歴史民俗資料館」があります。忘れられたように佇んでいますが、中に入ると手作業時代の漁具・木偶・土偶など生活民具が約二千点収納されています。島根公民館にお願いして観覧することが出来ます。島根半島ではこのように民俗資料が大量に収集されているのは、「美保関歴史・生活体験資料館」、「大社町鵜鷺公民館資料室」の他は思い浮かびません。
◎松江市島根町野波の日御碕神社から南東側50m、枕木山華蔵寺への山道の入り口あたりに、古布等によるタペストリ-、袋物など、また陶芸作品を展示・販売する「サンビル 手仕事の館 和楽」が平成26年6月に開店しました。(コンクリート2階建て)
・四十二浦巡りのガイドブック・マップなどの販売もしています。コ—ヒ-、紅茶なども準備されていますので、浦巡りの休憩に利用できます。是非お立ち寄りください。コロナ禍で休店していますが、ガイドブック、休憩などご用は相談ください。
○開店は毎週、月・木・金・土・日曜日の10:00~15:00までです。手作り教室を開催していることがありますので、不在のときには0852-85-3042 携帯090-9730-4118 (余村美佐子さん)にご連絡ください。また、月に1回水菓子など手作り菓子を添えたお茶を楽しんで頂きます。(250円)
※平成28年4月2日から「春の和楽 ひな飾り・手作り人形展」を開催されます。4月3日(日)は、近くのチェリ-ロ-ドで、島根町の桜まつりも開催されます。
4月16(土)、17日(日)には、松江市の陶芸家(火の川焼)福島絵美氏の作品を展示・販売するほか、ル-ブル美術館グランプリを受賞、島根県ふるさと伝統工芸に認定された福島さんのギャラリ-ト-ク「海外陶芸等よもやま話」の時間(4/17の午後2時から)もあります。
海岸は三百七十メートルに及んだという。当時の野波の神社は浜の東に鎮座していたという
『出雲国風土記』をひもとくと野波は「野浪浜 広さ二百八十歩なり。東の辺に社あり。又、百姓の家あり。」とみえる。海岸は三百七十メートルに及んだという。当時の野波の神社は浜の東に鎮座していたという。
現在、その「野波浜」の海岸の一番西端に鎮座しているのが日御碕神社である。勧請時期は不明であるが、かつては海中の雄島に鎮座していたが、天正年間に大波の為に流され、現在地に漂着、鎮座という。大社町の日御碕神社から分霊を勧請したのはそれ以前ということになる。宝永年間の四十二浦巡りの巡礼者その「日御崎大神宮」を参拝していた。この日御碕神社は野波をはじめとして笠浦・瀬崎・佐陀本郷、また小さいながらも大芦・千酌にも勧請されている。その勧請事情、時代背景については未だ十分な考察がなされているわけではない。今後の課題となる。
幕末の文政年間に四十二浦巡りで野波を訪れた金崎善平一行が参拝したのは「須賀神社」であった。現在、その「須賀神社」は姿も名も野波から消えているが、かつて明治の終わりころまで現・公民館近くの字・前田に日吉神社の相殿として須賀保里神社が鎮座していたことが確認される。実は字名を構成している「前(まへ)」は単なる前後ではなく「神の前」を示す用語である。字・前田の「須賀保里」神社こそ須賀神社であろう。須賀保里神社は明治四十二(一九〇九)年に日吉神社とともに海岸西部の日御碕神社に遷座・合祀されたようである。しかし、現在、「須賀保里」神社の名は絶えたようである。この旧社地の前田は野波浜の「東の辺」にあたり、『出雲国風土記』にみえた「東の辺に社あり」に相当するのではなかろうか。忘れられた『出雲国風土記』の「努那彌社」の一社であろう。