諸喰浦

浦名 諸喰浦(もろくいうら)
神社名 奢母智神社
祭神 天久比奢母智神
國久比奢母智神
所在地 松江市美保関町諸喰644

諸喰浦奢母智大明神 
  神(かみ)のます 御笠(みかさ)のもりや 茂(しげ)りあう
            幾世(いくよ)久(ひさ)しき 諸喰(もろくい)の浦(うら)

諸喰浦
諸喰浦

永禄年間(一五六〇年頃)織田信長の桶狭間の戦いの頃毛利氏の家臣三人が、七類港付近法田沖の鷹場島で討ち死にし、その後疫病が流行し、三人の武士のたたりであるとして、住民・社寺は法田から諸喰に移ったとのことです。鷹場島にあった三人の武士の霊を祀る神社は、貞享三年(一六八五年)に奢母智神社の境内に移されています。

 諸喰は、島根半島の南側境水道大橋を渡った境港市出身の水木しげる氏が幼少時出会い、漫画に表現されている妖怪世界との邂逅に影響したとされる「のんのんばあ」こと、景山ふささんの出身地でもあります。この四月八日には、一畑薬師を崇敬してやまなかった景山ふささんと水木しげる少年のブロンズ像「のんのんばあとおれ」が建立されました。当日は水木しげる氏夫妻・長女、県知事、松江・出雲・境港の各市長の他沢山の人が詰めかけて、ブロンズ像の除幕式、一畑薬師管長の慰霊の祈祷など盛大に執り行われました。

この六月三日には、奢母智神社に参拝する海岸道路の途中橋の手前に、景山ふささんの出身地であることを記した記念木柱が地元自治会により建立されました。島根半島四十二浦巡りの信仰の世界と水木しげる氏の妖怪の世界との接点が奇しくもここにあります。

諸喰浦の奢母智神社から境港市の水木しげるロード、妖怪神社までは、車で、二十分ばかりのところにあります。疫病により、親を早くに亡くしたり、子供が早世したり医学等の人知の及ばない災厄に襲われても救う術のない時代で、神仏に平癒を祈り、生活の大きな変化に耐えていくための信仰の世界を思います。「のんのんばあ」景山ふささんも境港市で六十代で亡くなったとのことです。

諸喰浦

「諸喰」という地名は『出雲国風土記』においては「這田浜(現・法田)」に埋没して確認できない

諸喰浦

「諸喰」という地名は『出雲国風土記』においては「這田浜(現・法田)」に埋没して確認できない。また「奢母智」なる社名を冠する神社も見えない。 

古く『雲陽誌』にはすでに祭神を天之久比奢母智神、國之久比奢母智神とする「奢母智明神」が見え、境内社としての「多加波(高場)明神」の名も見える古社である。その「多加波明神」の遷座が貞享年間といわれており、「奢母智明神」は江戸時代初期にさかのぼると考えられる。 

問題は一般に知られない「天之久比奢母智神、國之久比奢母智神」という祭神である。『古事記』をひも解くと確かに「此の速秋津日子、速秋津日賣の二はしらの神、河海に因りて持ち別けて、生める神の名は、沫那藝神、次に沫那美神、次に頬那藝神、次に頬那美神、次に天之水分神、次に國之水分神、次に天之久比奢母智神、次に國之久比奢母智神、次に風の神、名は志那都比古を生み、次に木の神、名は久久能智神を生み、次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比賣を生みき」とみえ、両神の存在を知ることができる。それによれば二神とも「河海」の神であり。祭神としては相応しいといえよう。 

江戸時代初め頃、この付近で『古事記』が読まれ、その中でこの二神が祭神として選ばれたとしたら地域文化を考える上で大変興味深い事例であろう。可能性として「もろくい」の「くい」 と「天之久比」「國之久比」、二つの「久比」を諸喰に引き付けた可能性もある。

そもそも「奢母智(三文字とも書く資料もある。読みには「しゃもじ」とする事例もある。)」とは如何なる意味なのであろうか。可能性として高いのは「佐比持」神、鰐神、鮫神であるが、いわゆるシュモク鮫、先端に「佐比(鋤)」を戴く鮫である。そうであるならば『出雲国風土記』がいう「和爾」となろう。(関 和彦)

浦名 諸喰浦(もろくいうら)
神社名 奢母智神社
祭神 天久比奢母智神
國久比奢母智神
所在地 松江市美保関町諸喰644

諸喰浦奢母智大明神 
  神(かみ)のます 御笠(みかさ)のもりや 茂(しげ)りあう
            幾世(いくよ)久(ひさ)しき 諸喰(もろくい)の浦(うら)

現地までのアクセス
浦巡りガイド

永禄年間(一五六〇年頃)織田信長の桶狭間の戦いの頃毛利氏の家臣三人が、七類港付近法田沖の鷹場島で討ち死にし、その後疫病が流行し、三人の武士のたたりであるとして、住民・社寺は法田から諸喰に移ったとのことです。鷹場島にあった三人の武士の霊を祀る神社は、貞享三年(一六八五年)に奢母智神社の境内に移されています。

 諸喰は、島根半島の南側境水道大橋を渡った境港市出身の水木しげる氏が幼少時出会い、漫画に表現されている妖怪世界との邂逅に影響したとされる「のんのんばあ」こと、景山ふささんの出身地でもあります。この四月八日には、一畑薬師を崇敬してやまなかった景山ふささんと水木しげる少年のブロンズ像「のんのんばあとおれ」が建立されました。当日は水木しげる氏夫妻・長女、県知事、松江・出雲・境港の各市長の他沢山の人が詰めかけて、ブロンズ像の除幕式、一畑薬師管長の慰霊の祈祷など盛大に執り行われました。

この六月三日には、奢母智神社に参拝する海岸道路の途中橋の手前に、景山ふささんの出身地であることを記した記念木柱が地元自治会により建立されました。島根半島四十二浦巡りの信仰の世界と水木しげる氏の妖怪の世界との接点が奇しくもここにあります。

諸喰浦の奢母智神社から境港市の水木しげるロード、妖怪神社までは、車で、二十分ばかりのところにあります。疫病により、親を早くに亡くしたり、子供が早世したり医学等の人知の及ばない災厄に襲われても救う術のない時代で、神仏に平癒を祈り、生活の大きな変化に耐えていくための信仰の世界を思います。「のんのんばあ」景山ふささんも境港市で六十代で亡くなったとのことです。

「諸喰」という地名は『出雲国風土記』においては「這田浜(現・法田)」に埋没して確認できない

「諸喰」という地名は『出雲国風土記』においては「這田浜(現・法田)」に埋没して確認できない。また「奢母智」なる社名を冠する神社も見えない。 

古く『雲陽誌』にはすでに祭神を天之久比奢母智神、國之久比奢母智神とする「奢母智明神」が見え、境内社としての「多加波(高場)明神」の名も見える古社である。その「多加波明神」の遷座が貞享年間といわれており、「奢母智明神」は江戸時代初期にさかのぼると考えられる。 

問題は一般に知られない「天之久比奢母智神、國之久比奢母智神」という祭神である。『古事記』をひも解くと確かに「此の速秋津日子、速秋津日賣の二はしらの神、河海に因りて持ち別けて、生める神の名は、沫那藝神、次に沫那美神、次に頬那藝神、次に頬那美神、次に天之水分神、次に國之水分神、次に天之久比奢母智神、次に國之久比奢母智神、次に風の神、名は志那都比古を生み、次に木の神、名は久久能智神を生み、次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比賣を生みき」とみえ、両神の存在を知ることができる。それによれば二神とも「河海」の神であり。祭神としては相応しいといえよう。 

江戸時代初め頃、この付近で『古事記』が読まれ、その中でこの二神が祭神として選ばれたとしたら地域文化を考える上で大変興味深い事例であろう。可能性として「もろくい」の「くい」 と「天之久比」「國之久比」、二つの「久比」を諸喰に引き付けた可能性もある。

そもそも「奢母智(三文字とも書く資料もある。読みには「しゃもじ」とする事例もある。)」とは如何なる意味なのであろうか。可能性として高いのは「佐比持」神、鰐神、鮫神であるが、いわゆるシュモク鮫、先端に「佐比(鋤)」を戴く鮫である。そうであるならば『出雲国風土記』がいう「和爾」となろう。(関 和彦)