唯浦
浦名 | 唯浦(ただうら) |
---|---|
神社名 | 田田神社 |
祭神 | 美保津姫命 |
所在地 | 出雲市美保町攻鞍821 |
ただいま準備中です
大正元年(1912年)12月27日の朝朝は荒天きで波も穏やかだったので、塩津浦の漁船26隻が早朝から出漁していました。ところが午前10時頃急に大波がおこり、塩煙で沖が見えないほどの荒れ模様となりました。9隻の船が港に帰り付けず、塩津浦は唯浦へ応援を求めたものです。いったんは、救助に成功したかに見えましたが、3隻の行方が分からないということで、午後2時40分に唯浦の青年15人が再度救難にそのまま帰らぬ人となったというものです。当時夜学で教員和泉林市郎氏は青年達に海難救助の精神を教えていたので、責任を感じて奔走し、大正4年8月に「義勇の碑」が唯浦の大岩に刻まれました。平成23年10月には、百回忌を記念して、義勇の碑」の説明板を設置し、県知事・県議会議長他の皆さんが参列して、盛大な顕彰式が行われました。
10代から30代の若者15名を一度に亡くすという実に痛ましい出来事ですが、明治・大正と云う想像もつかない時代に命懸けで責任を果たすという潔い精神を感じます。
田田神社への道は、初めていくとまず見つかりません。御津神社方面から車の交差できない狭いトンネルを越えて、右手に日本海をかなり下に見ながら進むと右手に「美保町」の小さな看板が目安で、その坂道を道なりに下っていくと道路が直線になるあたりで、右手山の中腹に見上げるようにあります。
義勇の碑の銘板の岩は地殻変動により岩脈が直立した直立層と呼ばれる地層になっています。この岩に穴倉が見えていて、地元では出雲国風土記に記述されている「紫菜磯(のりしのいそ)に窟屋(いわや)」の候補とされています。この周辺には同じような窟屋がありますが、陸上から見ることが出来るのは、ここだけです。島根半島が大陸から離れて行く過程で地形が90度傾くような大きな変動の形跡は国引き神話の世界を感じさせます。
残念ながら『出雲国風土記』楯縫郡条の海岸記事に「唯浦」はみえないが、神社項に「田田社」が記されている
残念ながら『出雲国風土記』楯縫郡条の海岸記事に「唯浦」はみえないが、神社項に「田田社」が記されている。現在の「田田神社」、旧の「三保大明神」につながるのであろう。古く江戸時代初期の岸崎時照の『出雲国風土記抄』には「楯縫郡只浦大明神」とみえ古代の「田田」の呼称を残していたことが分かる。しかし江戸時代中頃の『雲陽誌』には「たた」の名称を失い「三穂明神 美穂津姫をまつる。本社なし幣帛を立る」とあるのみで、社殿も無くなる状況に置かれていたことがわかる。江戸後期の『出雲神社巡拝記』でも「今は社なし」と報告されており、厳しい信仰状態が続いていたらしい。慶応二年に同社を参拝した小村和四郎は「脇石玉垣、神木あり」と書き残している。
また小村が河瀬寛璽に聞いたところによると旧社地として「東の海辺の山本に、本宮といひて古来社地あり、幣をさして祭る」ところがあったという。
明治に入り、社殿も整えられ、風土記社名に復した。現在拝殿の篇額は「田田神社」となっている。(関 和彦)
浦名 | 唯浦(ただうら) |
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神社名 | 田田神社 |
祭神 | 美保津姫命 |
所在地 | 出雲市美保町攻鞍821 |
大正元年(1912年)12月27日の朝朝は荒天きで波も穏やかだったので、塩津浦の漁船26隻が早朝から出漁していました。ところが午前10時頃急に大波がおこり、塩煙で沖が見えないほどの荒れ模様となりました。9隻の船が港に帰り付けず、塩津浦は唯浦へ応援を求めたものです。いったんは、救助に成功したかに見えましたが、3隻の行方が分からないということで、午後2時40分に唯浦の青年15人が再度救難にそのまま帰らぬ人となったというものです。当時夜学で教員和泉林市郎氏は青年達に海難救助の精神を教えていたので、責任を感じて奔走し、大正4年8月に「義勇の碑」が唯浦の大岩に刻まれました。平成23年10月には、百回忌を記念して、義勇の碑」の説明板を設置し、県知事・県議会議長他の皆さんが参列して、盛大な顕彰式が行われました。
10代から30代の若者15名を一度に亡くすという実に痛ましい出来事ですが、明治・大正と云う想像もつかない時代に命懸けで責任を果たすという潔い精神を感じます。
田田神社への道は、初めていくとまず見つかりません。御津神社方面から車の交差できない狭いトンネルを越えて、右手に日本海をかなり下に見ながら進むと右手に「美保町」の小さな看板が目安で、その坂道を道なりに下っていくと道路が直線になるあたりで、右手山の中腹に見上げるようにあります。
義勇の碑の銘板の岩は地殻変動により岩脈が直立した直立層と呼ばれる地層になっています。この岩に穴倉が見えていて、地元では出雲国風土記に記述されている「紫菜磯(のりしのいそ)に窟屋(いわや)」の候補とされています。この周辺には同じような窟屋がありますが、陸上から見ることが出来るのは、ここだけです。島根半島が大陸から離れて行く過程で地形が90度傾くような大きな変動の形跡は国引き神話の世界を感じさせます。
残念ながら『出雲国風土記』楯縫郡条の海岸記事に「唯浦」はみえないが、神社項に「田田社」が記されている
残念ながら『出雲国風土記』楯縫郡条の海岸記事に「唯浦」はみえないが、神社項に「田田社」が記されている。現在の「田田神社」、旧の「三保大明神」につながるのであろう。古く江戸時代初期の岸崎時照の『出雲国風土記抄』には「楯縫郡只浦大明神」とみえ古代の「田田」の呼称を残していたことが分かる。しかし江戸時代中頃の『雲陽誌』には「たた」の名称を失い「三穂明神 美穂津姫をまつる。本社なし幣帛を立る」とあるのみで、社殿も無くなる状況に置かれていたことがわかる。江戸後期の『出雲神社巡拝記』でも「今は社なし」と報告されており、厳しい信仰状態が続いていたらしい。慶応二年に同社を参拝した小村和四郎は「脇石玉垣、神木あり」と書き残している。
また小村が河瀬寛璽に聞いたところによると旧社地として「東の海辺の山本に、本宮といひて古来社地あり、幣をさして祭る」ところがあったという。
明治に入り、社殿も整えられ、風土記社名に復した。現在拝殿の篇額は「田田神社」となっている。(関 和彦)