恵曇浦

浦名 恵曇浦※江角浦(えすみうら)
神社名 恵曇神社
祭神 磐坂日子命
所在地 松江市鹿島町恵曇374
恵曇浦

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恵曇浦

恵曇神社は、港に近い位置にあり、古浦からは佐陀川を渡って数百メートルのところにあります。

 恵曇には、銀行・郵便局・マーケット・一畑バス・食堂が集まっており、宍道湖方向の南に進むと松江市役所鹿島支所もあります。また、支所北側からは片句八幡宮への新しい道路と一九七四年に一号機が、さらに三号基も建設された島根原子力発電所、また原子力発電やエネルギーについて学ぶ「島根原子力館」への進入路もあります。

恵曇のとんどは、古浦とほぼ同様に、干支の張り子を歳徳神の神輿と共に担ぎ町内巡行します。

 恵曇の灘祭(竜神祭)は、古浦の灘祭の明くる四月二十一日に午後恵曇港の外海に出て、竜神様を木船でお迎えし、社を恵曇神社拝殿左手のやはり恵曇神社の拝殿にお祭し、夜になって海にお送りします。また、恵曇神社の「浦安の舞」は、十一月九日に行うこととされています。小学校四・五年生の女子が四人舞い、六年生が伴奏に歌います。

出雲国風土記にある「恵曇海辺社」は、港を右に回り込み手結に向かう道路の角の山手辺りとされ山を背にした社があります。

恵曇港は大きな港ですが、漁師の数がめっきり減って、地元産の魚を調理出来ないのが残念だと食堂の主人は語っていました。

 恵曇は一九三一年に上海で、魯迅に会い師事し、翻訳に携わった増田渉の出身地でもあります。あらためて「魯迅選集」を開けてみると同氏の名前がありました。片句八幡宮の拝殿左右に増田渉親子が灯篭を寄進されているのも、案内で知りました。「増田渉」の魯迅との交流、著作活動については佐太神社南側の「鹿島歴史民俗資料館」に展示されております。

えびす・だいこく像(赤い紙は餌・・)

「妙やここに北野の神のますしるし」とあり、詠歌では何故、北野天神なのか訝しく思っている

えびす・だいこく像(正月正月3日の午前中まで)

 不可解なのは「江角浦」の北野天神である。恵曇で天神といえば地元でも古浦天神であり、他に思いつく人はいないであろう。確かに宝永七(一七一〇)年の「四十二浦之詠歌」では「北野天神」とあり、詠歌でも「北野の神」と歌っている。しかし、歌の内容をみると「妙やここに北野の神のますしるし」とあり、詠歌では何故、北野天神なのか訝しく思っているようである。

 また同時期の享保二(一七一七)年の『雲陽誌』の「江角」の条項には、恵曇海辺社・海辺社・恵比寿宮・水神・荒神しかみえず、「北野」天神はみえない。また文久三(一八六三)年に四十二浦を廻り、江角浦の神社を参拝した熊野村の金崎善平は神社を「恵曇神」としている。

 考えられることは宝永年間までは「北野天神」であったのが、享保年間に『出雲国風土記』にみえる「恵曇」神社に改称されたという流れであるが、余りにも天神信仰と風土記社では乖離しすぎているのではなかろうか。また北野天神が「恵曇」神社に合祀されたことも想定されるが、現在、江角の恵曇神社にはその形跡はみえない。どちらにしても江角浦の神社といえば金崎善平が参拝した『出雲国風土記』に「恵曇海辺社」とみえる古社・恵曇神社である。慶応二(一八六六)年に「江角(惠曇)」を訪れた小村和四郎は「江角大明神」を参拝し、宮司直々に朱印帳に社名を認めて貰っている。そこには「惠曇神社・恵比須神社・惠曇海辺神社」の社名しかみえず、「北野天神」の記載はない。

恵曇浦
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浦名 恵曇浦※江角浦(えすみうら)
神社名 恵曇神社
祭神 磐坂日子命
所在地 松江市鹿島町恵曇374
現地までのアクセス
浦巡りガイド

恵曇神社は、港に近い位置にあり、古浦からは佐陀川を渡って数百メートルのところにあります。

 恵曇には、銀行・郵便局・マーケット・一畑バス・食堂が集まっており、宍道湖方向の南に進むと松江市役所鹿島支所もあります。また、支所北側からは片句八幡宮への新しい道路と一九七四年に一号機が、さらに三号基も建設された島根原子力発電所、また原子力発電やエネルギーについて学ぶ「島根原子力館」への進入路もあります。

恵曇のとんどは、古浦とほぼ同様に、干支の張り子を歳徳神の神輿と共に担ぎ町内巡行します。

 恵曇の灘祭(竜神祭)は、古浦の灘祭の明くる四月二十一日に午後恵曇港の外海に出て、竜神様を木船でお迎えし、社を恵曇神社拝殿左手のやはり恵曇神社の拝殿にお祭し、夜になって海にお送りします。また、恵曇神社の「浦安の舞」は、十一月九日に行うこととされています。小学校四・五年生の女子が四人舞い、六年生が伴奏に歌います。

出雲国風土記にある「恵曇海辺社」は、港を右に回り込み手結に向かう道路の角の山手辺りとされ山を背にした社があります。

恵曇港は大きな港ですが、漁師の数がめっきり減って、地元産の魚を調理出来ないのが残念だと食堂の主人は語っていました。

 恵曇は一九三一年に上海で、魯迅に会い師事し、翻訳に携わった増田渉の出身地でもあります。あらためて「魯迅選集」を開けてみると同氏の名前がありました。片句八幡宮の拝殿左右に増田渉親子が灯篭を寄進されているのも、案内で知りました。「増田渉」の魯迅との交流、著作活動については佐太神社南側の「鹿島歴史民俗資料館」に展示されております。

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えびす・だいこく像(赤い紙は餌・・)
えびす・だいこく像(正月正月3日の午前中まで)

「妙やここに北野の神のますしるし」とあり、詠歌では何故、北野天神なのか訝しく思っている

 不可解なのは「江角浦」の北野天神である。恵曇で天神といえば地元でも古浦天神であり、他に思いつく人はいないであろう。確かに宝永七(一七一〇)年の「四十二浦之詠歌」では「北野天神」とあり、詠歌でも「北野の神」と歌っている。しかし、歌の内容をみると「妙やここに北野の神のますしるし」とあり、詠歌では何故、北野天神なのか訝しく思っているようである。

 また同時期の享保二(一七一七)年の『雲陽誌』の「江角」の条項には、恵曇海辺社・海辺社・恵比寿宮・水神・荒神しかみえず、「北野」天神はみえない。また文久三(一八六三)年に四十二浦を廻り、江角浦の神社を参拝した熊野村の金崎善平は神社を「恵曇神」としている。

 考えられることは宝永年間までは「北野天神」であったのが、享保年間に『出雲国風土記』にみえる「恵曇」神社に改称されたという流れであるが、余りにも天神信仰と風土記社では乖離しすぎているのではなかろうか。また北野天神が「恵曇」神社に合祀されたことも想定されるが、現在、江角の恵曇神社にはその形跡はみえない。どちらにしても江角浦の神社といえば金崎善平が参拝した『出雲国風土記』に「恵曇海辺社」とみえる古社・恵曇神社である。慶応二(一八六六)年に「江角(惠曇)」を訪れた小村和四郎は「江角大明神」を参拝し、宮司直々に朱印帳に社名を認めて貰っている。そこには「惠曇神社・恵比須神社・惠曇海辺神社」の社名しかみえず、「北野天神」の記載はない。