片句浦
浦名 | 片句浦(かたくうら) |
---|---|
神社名 | 八幡宮 |
祭神 | 応神天皇 |
所在地 | 松江市鹿島町片句347 |
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片句八幡宮は、手結から東に向かうと、バス乗り場の海側崖下にあります。港まで降りて、中ほどの進入路を上がっていくと鳥居が見えます。
片句八幡宮のとんどは三日に行われます。歳神とえびす・だいこくの像が乗った「えびす船」の神輿を担いで練り歩くものです。人々は健康と繁栄を祈るように競い合い、浜に出て「若松様」を歌います。また、今は片江の「墨付け」が有名になっていますが、ここ片句でも繁栄を祈るため、未婚の女性に墨付けすると云う風習がありましたが、今は住民・来訪者の顔に墨汁を付けるようになってています。
また、十一月には漁師の祭として、大漁と安全を祈る竜神祭り「リンゴンさん」が港の三ヶ所で行われます。わらで船を作りお供え物を載せて、海に流すというものです。
片句の板ワカメは格別おいしいものだと聞きましたが、サザエ・海苔等も採取されています。
片句大師堂は、片句の集落から少し東に入った島根原子力発電所から山上に向かって登ったところにあります。大師堂は四十二浦巡りの宿として提供されていましたが、今も台所が付いており、煮炊きが出来る構造で信仰の集まりに使用されています。この大師堂の出入り口は、「島根原子力館」の入り口近くで、コンクリ‐トを敷いた参道になっています。また、四国八十八か所巡りの簡略の巡礼路もあり、祠が祀られています。
ここ片句は伝統的信仰と原子力発電と云う先端文明の接点になっています。
聞き取り調査の報告「出雲八束郡片句浦民俗聞書」が残されている
鎮座地の字は「登り」であり、境内前方の民家の間を「登り」参詣した名残であろう。片句に関して
民俗学者宮本常一が昭和十四(一九三九)年十二月十七日から二十日まで行った聞き取り調査の報告「出
雲八束郡片句浦民俗聞書」が残されている。
宮本は八幡宮の棟札について十四枚を観察し、確実なものとして貞享年間、不明の中に「弘治」と読め
そうなものもあるとしている。また棟札から本殿修復年代を想定し、大体二十年毎の遷宮があったことを物語っているという。
現在の社殿を拝観しながら過去の地域の方々の信仰のこころの積み重ねを感じるところである。
また「四二浦の潮汲み」について言及し、「浦々の潮を、竹の筒に一滴か二滴ずつ汲んで集め、かつその土地の社に参り、浦々の家で門付けをなし、最後に一畑へ参るのである」、「まことに心をうたれる風景である。片句ではたいてい太子堂で泊まっていくそうである」としている。その太子堂は片句集落からはかなり離れた佐太方面に向かう山中の道に残っている。
宮本が聞き取りを行ったのは村びとから尊敬されていた「山本先生」であった。宮本は何故か名を記していないが、山本恒太郎(昭和二十九年没)という名士であった。
浦名 | 片句浦(かたくうら) |
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神社名 | 八幡宮 |
祭神 | 応神天皇 |
所在地 | 松江市鹿島町片句347 |
片句八幡宮は、手結から東に向かうと、バス乗り場の海側崖下にあります。港まで降りて、中ほどの進入路を上がっていくと鳥居が見えます。
片句八幡宮のとんどは三日に行われます。歳神とえびす・だいこくの像が乗った「えびす船」の神輿を担いで練り歩くものです。人々は健康と繁栄を祈るように競い合い、浜に出て「若松様」を歌います。また、今は片江の「墨付け」が有名になっていますが、ここ片句でも繁栄を祈るため、未婚の女性に墨付けすると云う風習がありましたが、今は住民・来訪者の顔に墨汁を付けるようになってています。
また、十一月には漁師の祭として、大漁と安全を祈る竜神祭り「リンゴンさん」が港の三ヶ所で行われます。わらで船を作りお供え物を載せて、海に流すというものです。
片句の板ワカメは格別おいしいものだと聞きましたが、サザエ・海苔等も採取されています。
片句大師堂は、片句の集落から少し東に入った島根原子力発電所から山上に向かって登ったところにあります。大師堂は四十二浦巡りの宿として提供されていましたが、今も台所が付いており、煮炊きが出来る構造で信仰の集まりに使用されています。この大師堂の出入り口は、「島根原子力館」の入り口近くで、コンクリ‐トを敷いた参道になっています。また、四国八十八か所巡りの簡略の巡礼路もあり、祠が祀られています。
ここ片句は伝統的信仰と原子力発電と云う先端文明の接点になっています。
聞き取り調査の報告「出雲八束郡片句浦民俗聞書」が残されている
鎮座地の字は「登り」であり、境内前方の民家の間を「登り」参詣した名残であろう。片句に関して
民俗学者宮本常一が昭和十四(一九三九)年十二月十七日から二十日まで行った聞き取り調査の報告「出
雲八束郡片句浦民俗聞書」が残されている。
宮本は八幡宮の棟札について十四枚を観察し、確実なものとして貞享年間、不明の中に「弘治」と読め
そうなものもあるとしている。また棟札から本殿修復年代を想定し、大体二十年毎の遷宮があったことを物語っているという。
現在の社殿を拝観しながら過去の地域の方々の信仰のこころの積み重ねを感じるところである。
また「四二浦の潮汲み」について言及し、「浦々の潮を、竹の筒に一滴か二滴ずつ汲んで集め、かつその土地の社に参り、浦々の家で門付けをなし、最後に一畑へ参るのである」、「まことに心をうたれる風景である。片句ではたいてい太子堂で泊まっていくそうである」としている。その太子堂は片句集落からはかなり離れた佐太方面に向かう山中の道に残っている。
宮本が聞き取りを行ったのは村びとから尊敬されていた「山本先生」であった。宮本は何故か名を記していないが、山本恒太郎(昭和二十九年没)という名士であった。