大芦浦

大芦浦
浦名 大芦浦(おわしうら)
神社名 大埼川辺神社
祭神 伊邪那岐命
所在地 松江市島根町大芦2209
垣の内地区 チ—ナマイタ 
大芦浦

・大芦浦は御津神社から海岸沿いの崖道を東に進みます。坂道の頂点島根町側に入った辺りで、崖下を覗き込むと、大きなさざ波が固まったような「洗濯岩」と呼ばれる景観を見ることが出来ます。島根半島が国引きで引きずられた後のようで興味深い光景です。

大埼川辺神社は、御津浦御津神社から海岸沿いに島根町に入り、日常生活用品・野菜・魚等の販売店のあるマリンショップの裏の山手にあります。

大芦の素盞鳴尊を鎮めるという荒神祭は、「チーナマイタ」と呼ばれ、毎年十月から十一月の間に二十メートルばかりのわらで作った龍蛇を作ります。垣の内、浜地区等5地区で行われます。この地域の荒神の神木は神社境内にはなくて、集落の裏手の山にそれぞれ祀られています。浜地区では、八つの頭を持つおろちを作り、垣の内地区では作った龍蛇を子供達が持ち出して隠し、大人が探し、沢山の菓子と交換に探し当てるという行事が加わります。

 大芦では平成九年頃に神社から眼下に見える畑でイチジクの栽培を始めて、現在一五〇本を育てるに至り、生食販売の他地元の婦人を中心として「島根町潮風グループ」が平成二一年に結成されて、イチジクジャム、同じくアイスクリーム・羊羹を製造・販売されています。 イチジクの生育には、潮風が効果的と云うことで、海岸から五百m以内で栽培されていると言うことです。松江物産観光館・加賀潜戸遊覧船の港「マリンプラザ」等で販売しています。

野波のチェリーロードの桜の見ごろが過ぎた頃、大埼川辺神社南側の山手をずっと見上げる辺りに沢山の山桜が育てられています。松江方面から海を眺める辺りの「山陰松江学院」の看板を左に入り島根町運動公園を右手に見ながら、林道に出て、東方向に進むと「将軍桜」、「てんぐ桜」等の山桜を見ることが出来ます。

大芦浜の山手中腹に、瑞光寺があります。このお寺の本堂庭先から裏手にかけて、石仏がたくさん安置されています。四国八十八か所巡りの簡易な巡礼路が展開されています。この巡礼路は、鹿島町片句の「島根原子力館」辺りから、魚瀬町から伊野浦にに向かう途中にある元の大師堂辺りの3か所にあります。また、島根町加賀のお寺では、亡き人をしのび奉納された石仏がたくさんあると聞きます。

浜地区おろちの荒神

その「大芦」は「おわし」「おあし」「おおあし」と読みが混在している現実がある

現材の地名「大芦」は『出雲国風土記』島根郡条の海浜記事の中に「大崎浜」として姿を現し、また神社項には「大埼社 大埼川辺社」の二社がみえる歴史豊かなところである。歴史の流れの中で「おおさき」から変化して「大芦」になったのである。しかしその「大芦」は「おわし」「おあし」「おおあし」と読みが混在している現実がある。つまり「おおさき」が「おわし」「おあし」「おおあし」に訛ったというのであろう。果たして千三百年の時の流れで「さき」が「あし(わし)」に訛るのであろうか。そうであるならば訛りではなく、地名変更というべきであろう。

    加藤義成氏は『出雲国風土記』の「大崎・大埼」を「おおはし」と読んでいる。

   「さき」は当然「端(はし)」であり、「崎・埼」を「はし」とも読めそうである。その場合、「おおはし」から「おおあし」への訛りとなり、その変化は十分に想定できよう。

    ここで問題になるのが、江戸時代の「国司大明神」が『出雲国風土記』の二社とどう係わるのか、現在も「大埼」神社、「大埼川辺」神社として鎮座しているどちらの神社につながるのかである。

  大埼川辺神社の俗称は「国主(くにし)さん」であり江戸時代の「国司(くに し)」大明神の社名を継承していることがわかる。一方の大埼神社は「母坂(はん さか)さん」と呼ばれておりつながる可能性は少ない。

享保二年の『雲陽誌』において「国主」の方は「大椅川辺社」で祭神は伊弉諾册尊。「母坂」は「大椅社」で祭神は伊弉册尊としており、早い段階から流れはできていたようである。

大埼川辺神社の方が大埼神社よりも若干内陸に位置している。尚、『雲陽誌』は「伊弉册尊の産の穢を見て潮と水との堺に来、神意を潔たまひ川辺に社を建によりて大埼川辺の社といふなり、世の人清浄の潮を汲む時は今にいたりて此の浜に来て身を清るなり」とする。四十二浦巡りの根源をみる思いである。

浜地区 瑞光寺八十八か所巡り
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浦名 大芦浦(おわしうら)
神社名 大埼川辺神社
祭神 伊邪那岐命
所在地 松江市島根町大芦2209
現地までのアクセス
浦巡りガイド

・大芦浦は御津神社から海岸沿いの崖道を東に進みます。坂道の頂点島根町側に入った辺りで、崖下を覗き込むと、大きなさざ波が固まったような「洗濯岩」と呼ばれる景観を見ることが出来ます。島根半島が国引きで引きずられた後のようで興味深い光景です。

大埼川辺神社は、御津浦御津神社から海岸沿いに島根町に入り、日常生活用品・野菜・魚等の販売店のあるマリンショップの裏の山手にあります。

大芦の素盞鳴尊を鎮めるという荒神祭は、「チーナマイタ」と呼ばれ、毎年十月から十一月の間に二十メートルばかりのわらで作った龍蛇を作ります。垣の内、浜地区等5地区で行われます。この地域の荒神の神木は神社境内にはなくて、集落の裏手の山にそれぞれ祀られています。浜地区では、八つの頭を持つおろちを作り、垣の内地区では作った龍蛇を子供達が持ち出して隠し、大人が探し、沢山の菓子と交換に探し当てるという行事が加わります。

 大芦では平成九年頃に神社から眼下に見える畑でイチジクの栽培を始めて、現在一五〇本を育てるに至り、生食販売の他地元の婦人を中心として「島根町潮風グループ」が平成二一年に結成されて、イチジクジャム、同じくアイスクリーム・羊羹を製造・販売されています。 イチジクの生育には、潮風が効果的と云うことで、海岸から五百m以内で栽培されていると言うことです。松江物産観光館・加賀潜戸遊覧船の港「マリンプラザ」等で販売しています。

野波のチェリーロードの桜の見ごろが過ぎた頃、大埼川辺神社南側の山手をずっと見上げる辺りに沢山の山桜が育てられています。松江方面から海を眺める辺りの「山陰松江学院」の看板を左に入り島根町運動公園を右手に見ながら、林道に出て、東方向に進むと「将軍桜」、「てんぐ桜」等の山桜を見ることが出来ます。

大芦浜の山手中腹に、瑞光寺があります。このお寺の本堂庭先から裏手にかけて、石仏がたくさん安置されています。四国八十八か所巡りの簡易な巡礼路が展開されています。この巡礼路は、鹿島町片句の「島根原子力館」辺りから、魚瀬町から伊野浦にに向かう途中にある元の大師堂辺りの3か所にあります。また、島根町加賀のお寺では、亡き人をしのび奉納された石仏がたくさんあると聞きます。

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垣の内地区 チ—ナマイタ 
浜地区おろちの荒神
浜地区 瑞光寺八十八か所巡り

その「大芦」は「おわし」「おあし」「おおあし」と読みが混在している現実がある

現材の地名「大芦」は『出雲国風土記』島根郡条の海浜記事の中に「大崎浜」として姿を現し、また神社項には「大埼社 大埼川辺社」の二社がみえる歴史豊かなところである。歴史の流れの中で「おおさき」から変化して「大芦」になったのである。しかしその「大芦」は「おわし」「おあし」「おおあし」と読みが混在している現実がある。つまり「おおさき」が「おわし」「おあし」「おおあし」に訛ったというのであろう。果たして千三百年の時の流れで「さき」が「あし(わし)」に訛るのであろうか。そうであるならば訛りではなく、地名変更というべきであろう。

    加藤義成氏は『出雲国風土記』の「大崎・大埼」を「おおはし」と読んでいる。

   「さき」は当然「端(はし)」であり、「崎・埼」を「はし」とも読めそうである。その場合、「おおはし」から「おおあし」への訛りとなり、その変化は十分に想定できよう。

    ここで問題になるのが、江戸時代の「国司大明神」が『出雲国風土記』の二社とどう係わるのか、現在も「大埼」神社、「大埼川辺」神社として鎮座しているどちらの神社につながるのかである。

  大埼川辺神社の俗称は「国主(くにし)さん」であり江戸時代の「国司(くに し)」大明神の社名を継承していることがわかる。一方の大埼神社は「母坂(はん さか)さん」と呼ばれておりつながる可能性は少ない。

享保二年の『雲陽誌』において「国主」の方は「大椅川辺社」で祭神は伊弉諾册尊。「母坂」は「大椅社」で祭神は伊弉册尊としており、早い段階から流れはできていたようである。

大埼川辺神社の方が大埼神社よりも若干内陸に位置している。尚、『雲陽誌』は「伊弉册尊の産の穢を見て潮と水との堺に来、神意を潔たまひ川辺に社を建によりて大埼川辺の社といふなり、世の人清浄の潮を汲む時は今にいたりて此の浜に来て身を清るなり」とする。四十二浦巡りの根源をみる思いである。