河下浦
浦名 | 河下浦(かわしもうら) |
---|---|
神社名 | 【旧社名】蔵王権現 【現社名】意保美神社 |
祭神 | 狭田彦之大神・天鈿女之大神(あめのうづめのおおかみ) |
所在地 | 出雲市河下町217 |
湊(みなと)川下(かわしも)津(つ)瀬(せ)清(きよ)み
少童(わたつみ)も潮(しお)をかけてみそぎするかな
意保美神社は、十六島湾の河下港をまっすぐ眺め下ろす形で鎮座している。港と猪目洞窟・鷺浦方面への道路が整備されて分かりにくくなっていますが、河下郵便局等見える辺りの旧道沿いで探すと鳥居が目に入ります。意保美神社あたりから海岸沿いに西に向かうと猪目洞窟を経て出雲大社、鷺浦・日御碕神社に繋がっています。また、この神社の左手山に入ると弁慶が修行した鰐渕寺、スサノオの命を祀る韓竈神社があり、さながら歴史の交差点となっています。
四月の最後の日曜日には、鰐渕寺で修業した「武蔵坊弁慶祭り」があり、八月には鰐渕寺の念仏踊りに始まるとされる河下盆踊りがあります。「歌舞伎の始祖」とされる出雲大社の巫女であったという「出雲の阿国」もこの盆踊りから「かぶきおどり」を考案したと言われます。
十月第三日曜日には、神社例祭に「河下獅子舞保存会」の「獅子舞」が奉納されます。この地域では猪目の大歳神社から十六島町の許豆神社までの四社で保存会があり、例祭で奉納されます。獅子舞は天狗と獅子が二人してもつれ合うような形で、ささら、鈴、刀に持ち替えて踊るのですが、神社を守る狛犬の獅子を山の天狗が慰労しているかのようです。天狗の頭には様々な鳥の帽子を被っているのが印象に残ります。また、十一月二十三日(勤労感謝の日)には、「山の神祭」があり、藁(わら)で作った七十センチばかりのみかんを積んだ舟を、海に流すというものです。山の神は、大山祇命が祭神で、氏子が一年間家で「宮」を預かり祀り、海の神にも贈り物をするという儀式です。山の神と海の神をつなぐというのも、荒神さんと龍神さんをつなげるという形になっています。。「雲陽軍実紀」には、三日月に艱難辛苦を祈った山中鹿介の祖父山中勘兵衛勝重が蟄居していたこと、「島根県口碑伝説集」には、山中鹿介がここで誕生したという記載があります。
「意保美」は「太」一族の歴史の名残かも知れない
蔵王権現は神仏習合の神として認識されているようにみえる。しかし、河下一帯において近世以降、管見の限り「蔵王権現」の存在は四十二浦の版木以外に確認できない。 ただし、河下の山稜に当たる鰐淵寺に蔵王権現が祀られている。その影響が何らかの形で河下の神社に覆いかぶさった可能性もある。
河下地域には『出雲国風土記』にみえる「意保美社」、『延喜式』の「意保美神社」がある。現在、その神社は河下町217に鎮座しているが、近世においては同じ河下町549の垂水神社を古代のそれに当てる考えもあった。はたして四十二浦の「蔵王権現」が現在の意保美神社、垂水神社のどちらにつながるのか今後の課題である。
近世に「大姫」「烏姫」大明神と表記する文書があるが、それは「意保美」の別表現である。注目すべきは古代、河下を含む出雲郡の郡司に「太臣」がいた事実である。「意保美」は「太」一族の歴史の名残かも知れない。
参拝したならば社殿を一周してみたい。社殿の後ろの軒下に祭祀用と思われる木杵が置かれていることに気がつくと思う。はたして遷宮の際の儀式に使われたものかどうか尋ねてみたいものである。(関 和彦)
浦名 | 河下浦(かわしもうら) |
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神社名 | 【旧社名】蔵王権現 【現社名】意保美神社 |
祭神 | 狭田彦之大神・天鈿女之大神(あめのうづめのおおかみ) |
所在地 | 出雲市河下町217 |
湊(みなと)川下(かわしも)津(つ)瀬(せ)清(きよ)み
少童(わたつみ)も潮(しお)をかけてみそぎするかな
意保美神社は、十六島湾の河下港をまっすぐ眺め下ろす形で鎮座している。港と猪目洞窟・鷺浦方面への道路が整備されて分かりにくくなっていますが、河下郵便局等見える辺りの旧道沿いで探すと鳥居が目に入ります。意保美神社あたりから海岸沿いに西に向かうと猪目洞窟を経て出雲大社、鷺浦・日御碕神社に繋がっています。また、この神社の左手山に入ると弁慶が修行した鰐渕寺、スサノオの命を祀る韓竈神社があり、さながら歴史の交差点となっています。
四月の最後の日曜日には、鰐渕寺で修業した「武蔵坊弁慶祭り」があり、八月には鰐渕寺の念仏踊りに始まるとされる河下盆踊りがあります。「歌舞伎の始祖」とされる出雲大社の巫女であったという「出雲の阿国」もこの盆踊りから「かぶきおどり」を考案したと言われます。
十月第三日曜日には、神社例祭に「河下獅子舞保存会」の「獅子舞」が奉納されます。この地域では猪目の大歳神社から十六島町の許豆神社までの四社で保存会があり、例祭で奉納されます。獅子舞は天狗と獅子が二人してもつれ合うような形で、ささら、鈴、刀に持ち替えて踊るのですが、神社を守る狛犬の獅子を山の天狗が慰労しているかのようです。天狗の頭には様々な鳥の帽子を被っているのが印象に残ります。また、十一月二十三日(勤労感謝の日)には、「山の神祭」があり、藁(わら)で作った七十センチばかりのみかんを積んだ舟を、海に流すというものです。山の神は、大山祇命が祭神で、氏子が一年間家で「宮」を預かり祀り、海の神にも贈り物をするという儀式です。山の神と海の神をつなぐというのも、荒神さんと龍神さんをつなげるという形になっています。。「雲陽軍実紀」には、三日月に艱難辛苦を祈った山中鹿介の祖父山中勘兵衛勝重が蟄居していたこと、「島根県口碑伝説集」には、山中鹿介がここで誕生したという記載があります。
「意保美」は「太」一族の歴史の名残かも知れない
蔵王権現は神仏習合の神として認識されているようにみえる。しかし、河下一帯において近世以降、管見の限り「蔵王権現」の存在は四十二浦の版木以外に確認できない。 ただし、河下の山稜に当たる鰐淵寺に蔵王権現が祀られている。その影響が何らかの形で河下の神社に覆いかぶさった可能性もある。
河下地域には『出雲国風土記』にみえる「意保美社」、『延喜式』の「意保美神社」がある。現在、その神社は河下町217に鎮座しているが、近世においては同じ河下町549の垂水神社を古代のそれに当てる考えもあった。はたして四十二浦の「蔵王権現」が現在の意保美神社、垂水神社のどちらにつながるのか今後の課題である。
近世に「大姫」「烏姫」大明神と表記する文書があるが、それは「意保美」の別表現である。注目すべきは古代、河下を含む出雲郡の郡司に「太臣」がいた事実である。「意保美」は「太」一族の歴史の名残かも知れない。
参拝したならば社殿を一周してみたい。社殿の後ろの軒下に祭祀用と思われる木杵が置かれていることに気がつくと思う。はたして遷宮の際の儀式に使われたものかどうか尋ねてみたいものである。(関 和彦)