釜浦
浦名 | 釜浦(かまうら) |
---|---|
神社名 | 石上神社 |
祭神 | 経津魂命 |
所在地 | 出雲市釜浦356・357(合併地) |
塩津浦西側の釜浦にも塩津浦と同名の「石上神社」があります。室町時代大内義隆の一族が逃れ住んでいた時にこの社に霊験を感じて社殿を造営して深く信仰したと由緒記にあります。
出雲国風土記には、「鎌間濱の広さ、一百歩あり」と記述されており、古代は「釜」を「鎌間」と表記しています。
釜浦の港を過ぎて西に向かうと急坂を登り、道路は左右に分かれます。右に行くと風車群に向かい十六島浦許豆神社に向かいます。左に進むと本当にこの先に道があるのかと云う先の見えない坂道からさらにイロハ坂を下り進むと、海岸に出ます。そこを左へ三百メ-トルばかり行くと北浜コミセンがあります。逆に右手に行くと十六島浦許豆神社があります。
鎮座地の釜浦は『出雲国風土記』に「鎌間浜」とみえる
鎮座地の釜浦は『出雲国風土記』に「鎌間浜」とみえる。残念ながら神社の記載はない。
旧社名の「石神」であるが、それよりも古い享保二年の『雲陽誌』には「石上神社」とみえており、「石上」を「いしがみ」と読んだ上での替え字であろう。「石上」の読みが本来「いしがみ」なのか、それとも「いそのかみ」なのか大きな問題である。祭神の「経津魂命」は国譲りの使者「経津主」であり、石上(物部)氏の祖先神に当たる神であることに気がつく必要がある。隣の塩津、そして西郷町にも「石上神社」が鎮座しており、「石上」信仰圏が浮かんでくる。『出雲国風土記』をひもとくと石上氏の元である物部臣氏が楯縫郡の郡司主帳として名を遺している。釜浦・塩津、そして西郷町付近まで古代において物部氏の支配化にあった反映なのかも知れない。(関 和彦)
浦名 | 釜浦(かまうら) |
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神社名 | 石上神社 |
祭神 | 経津魂命 |
所在地 | 出雲市釜浦356・357(合併地) |
塩津浦西側の釜浦にも塩津浦と同名の「石上神社」があります。室町時代大内義隆の一族が逃れ住んでいた時にこの社に霊験を感じて社殿を造営して深く信仰したと由緒記にあります。
出雲国風土記には、「鎌間濱の広さ、一百歩あり」と記述されており、古代は「釜」を「鎌間」と表記しています。
釜浦の港を過ぎて西に向かうと急坂を登り、道路は左右に分かれます。右に行くと風車群に向かい十六島浦許豆神社に向かいます。左に進むと本当にこの先に道があるのかと云う先の見えない坂道からさらにイロハ坂を下り進むと、海岸に出ます。そこを左へ三百メ-トルばかり行くと北浜コミセンがあります。逆に右手に行くと十六島浦許豆神社があります。
鎮座地の釜浦は『出雲国風土記』に「鎌間浜」とみえる
鎮座地の釜浦は『出雲国風土記』に「鎌間浜」とみえる。残念ながら神社の記載はない。
旧社名の「石神」であるが、それよりも古い享保二年の『雲陽誌』には「石上神社」とみえており、「石上」を「いしがみ」と読んだ上での替え字であろう。「石上」の読みが本来「いしがみ」なのか、それとも「いそのかみ」なのか大きな問題である。祭神の「経津魂命」は国譲りの使者「経津主」であり、石上(物部)氏の祖先神に当たる神であることに気がつく必要がある。隣の塩津、そして西郷町にも「石上神社」が鎮座しており、「石上」信仰圏が浮かんでくる。『出雲国風土記』をひもとくと石上氏の元である物部臣氏が楯縫郡の郡司主帳として名を遺している。釜浦・塩津、そして西郷町付近まで古代において物部氏の支配化にあった反映なのかも知れない。(関 和彦)