千酌浦
浦名 | 千酌浦(ちくみうら) |
---|---|
神社名 | 爾佐神社 |
祭神 | 伊邪那岐命 伊邪那美命 都久豆美神 |
所在地 | 松江市美保関町千酌1061 |
藻塩(もしお)やく 浜辺(はまべ)の波を 海士(あま)の子(こ)の
汲(くむ)や 百汲(ももくみ) 千酌(ちくみ)なるらん
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(浦巡りガイド)
爾佐神社境内には、体長二メートㇽ、高さ一.五メートㇽばかりの「流鏑馬神馬」の石像が拝殿右手にあります。爾佐神社では毎年四月三日の午後神社周辺で流鏑馬神事があります。県内では津和野町の鷲原八幡宮の、隠岐の島町の玉若酢命神社の流鏑馬が有名ですが、ここ爾佐神社の流鏑馬の歴史も古くて、およそ四五〇年前に始まったと伝わります。ここでは、馬に若者が乗り、町内を巡り歩き竹ざおに付けた的を射て、住民の健康と地域の発展を祈念するものです。神事の後は、子供達も神馬に乗せて貰いますが、遠く記憶に残る体験であるに違いありません。
また、流鏑馬神事の終わりに拝殿の中で、神馬の御者二人の若者が拝殿内でこの神事が来年も続くよう祈り奉納相撲を行います。双方が一回ずつ勝ち、三回目は引き分けで勝負を終えることになっています。隠岐島の人情相撲に似た話です。相撲は神意を伺う行為であるとされています。大相撲は皇室神道として天皇に奉げられる神事で、天皇陛下が大相撲を観戦される「天覧相撲」を思い出しました。この奉納相撲は過去には日本相撲協会が視察に来られたこともあるとのことでした。
拝殿内の神前には、「出雲四十二浦と塩垢離歌」の奉納板があります。実際に奉納されたものは、古くなり、新調されたものであると聞きました。爾佐神社の当屋は、一年間禊の形として、毎朝海岸に出向き、もんば(藻)二本を拝殿前に奉納する行事が課されています。
美保神社の当屋のように毎日早朝海に入り、食事他禁忌に満ちた生活まではないとのことでしたが、塩垢離の生活の日々には違いありません。
一月六日には、やはり拝殿で御田植神事が行われますが、爾佐神社では、爾佐の「幣(ぬさ)」にちなみ農具は御幣によって行われます。
千酌は島根半島の北海岸の浜浦の中で古代、最も重要な浦であった
千酌は島根半島の北海岸の浜浦の中で古代、最も重要な浦であった。それは『出雲国風土記』が詳細に語るように隠岐国への渡しが置かれた所であった。風土記によれば「東に松、南の方に駅家、北の方に百姓の家あり」とみえ、「伊差奈枳命の御子都久豆美命」が鎮座しているという。
江戸時代はじめの岸崎時照『出雲国風土記抄』は三社大明神を風土記の「爾佐社」に充てている。現在、正式にそのような理解があり、それに基づく信仰がある。但し、三社大明神が現在の爾佐神社であることは間違いないが、現爾佐神社は古代の「千酌社」であり、「瀬崎」で述べたように瀬崎の日御碕神社が「爾佐社」であった可能性もある。そこにみえる歴史の複雑な展開はわれわれに信仰と歴史、その抱え込む真摯な問題を投げかけている。
爾佐神社の北側に字「土居(だて・館)」がある。佐太神社の宮司であった朝山皓氏はそこに古代の駅家を想定した。爾佐神社の境内、本殿裏手に見られる土手も気になるところである。爾佐神社に神門を潜り、民家の間の参道を通り、海に足を運ぶ。そこでふと我々は勘違いをする。爾佐神社の前の海岸は実に東に向かっているのである。隠岐は左手の方、遥か彼方である。(関 和彦)
浦名 | 千酌浦(ちくみうら) |
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神社名 | 爾佐神社 |
祭神 | 伊邪那岐命 伊邪那美命 都久豆美神 |
所在地 | 松江市美保関町千酌1061 |
藻塩(もしお)やく 浜辺(はまべ)の波を 海士(あま)の子(こ)の
汲(くむ)や 百汲(ももくみ) 千酌(ちくみ)なるらん
(浦巡りガイド)
爾佐神社境内には、体長二メートㇽ、高さ一.五メートㇽばかりの「流鏑馬神馬」の石像が拝殿右手にあります。爾佐神社では毎年四月三日の午後神社周辺で流鏑馬神事があります。県内では津和野町の鷲原八幡宮の、隠岐の島町の玉若酢命神社の流鏑馬が有名ですが、ここ爾佐神社の流鏑馬の歴史も古くて、およそ四五〇年前に始まったと伝わります。ここでは、馬に若者が乗り、町内を巡り歩き竹ざおに付けた的を射て、住民の健康と地域の発展を祈念するものです。神事の後は、子供達も神馬に乗せて貰いますが、遠く記憶に残る体験であるに違いありません。
また、流鏑馬神事の終わりに拝殿の中で、神馬の御者二人の若者が拝殿内でこの神事が来年も続くよう祈り奉納相撲を行います。双方が一回ずつ勝ち、三回目は引き分けで勝負を終えることになっています。隠岐島の人情相撲に似た話です。相撲は神意を伺う行為であるとされています。大相撲は皇室神道として天皇に奉げられる神事で、天皇陛下が大相撲を観戦される「天覧相撲」を思い出しました。この奉納相撲は過去には日本相撲協会が視察に来られたこともあるとのことでした。
拝殿内の神前には、「出雲四十二浦と塩垢離歌」の奉納板があります。実際に奉納されたものは、古くなり、新調されたものであると聞きました。爾佐神社の当屋は、一年間禊の形として、毎朝海岸に出向き、もんば(藻)二本を拝殿前に奉納する行事が課されています。
美保神社の当屋のように毎日早朝海に入り、食事他禁忌に満ちた生活まではないとのことでしたが、塩垢離の生活の日々には違いありません。
一月六日には、やはり拝殿で御田植神事が行われますが、爾佐神社では、爾佐の「幣(ぬさ)」にちなみ農具は御幣によって行われます。
千酌は島根半島の北海岸の浜浦の中で古代、最も重要な浦であった
千酌は島根半島の北海岸の浜浦の中で古代、最も重要な浦であった。それは『出雲国風土記』が詳細に語るように隠岐国への渡しが置かれた所であった。風土記によれば「東に松、南の方に駅家、北の方に百姓の家あり」とみえ、「伊差奈枳命の御子都久豆美命」が鎮座しているという。
江戸時代はじめの岸崎時照『出雲国風土記抄』は三社大明神を風土記の「爾佐社」に充てている。現在、正式にそのような理解があり、それに基づく信仰がある。但し、三社大明神が現在の爾佐神社であることは間違いないが、現爾佐神社は古代の「千酌社」であり、「瀬崎」で述べたように瀬崎の日御碕神社が「爾佐社」であった可能性もある。そこにみえる歴史の複雑な展開はわれわれに信仰と歴史、その抱え込む真摯な問題を投げかけている。
爾佐神社の北側に字「土居(だて・館)」がある。佐太神社の宮司であった朝山皓氏はそこに古代の駅家を想定した。爾佐神社の境内、本殿裏手に見られる土手も気になるところである。爾佐神社に神門を潜り、民家の間の参道を通り、海に足を運ぶ。そこでふと我々は勘違いをする。爾佐神社の前の海岸は実に東に向かっているのである。隠岐は左手の方、遥か彼方である。(関 和彦)