長見神社

神社名 長見神社
祭神 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
木花開那姫(このはなさくやひめ)
所在地 松江市長海町51
長見神社


松江市本庄町周辺には、弁慶ゆかりの史跡・伝説が沢山あります。

 長見神社の北東の森は、弁慶が生まれ育った弁慶森があり、その森の中には母弁吉が弁慶を生む時に産湯に使う水を掘ったと云う井戸の跡(今は不明)と弁吉を祀る弁吉女霊社があります。弁吉女霊社は毎年七月一日に「弁吉女霊社祭」を長見神社氏子の行事として、和歌山からはるばる縁を求めてここ長海で出会い、弁慶を生み、亡くなった弁慶の母弁吉を偲ぶ行事として古来執り行っています。

 弁慶森の入口に近年案内看板も設置されましたが、道路を左手に入り、来待石の真四角な敷石をたどって杉林の中に入ると、椎の大木の下に弁吉女霊社の祠があり、弁慶の人形を入れた陶器の家形陶器の、なぎなた・刀等が奉納されています。

 幼少時乱暴者だったと伝わりますが、武蔵坊弁慶は源義経を守り衣川の合戦で、「弁慶の立ち往生」で戦死したとされていますが、元気な弁慶を生み育てた弁吉にあやかり、安産を祈願し、お礼参りする姿が今もあります。   以前は境内には水田もあり、弁慶の産湯に使った水汲み場もあり、四間・二間ばかりの妊婦の御お籠もり堂もあったと聞きました。地域の婦人が集まり、草刈りなどし、お茶を飲む場にしていたものだと聞き、使用されていたと思われる瓦の残骸があります。

 弁慶の幼少期いたずらに手を焼いて閉じ込められた弁慶島、神社参道の初めの鳥居から左手西側華蔵寺方面からの出水時の岩石を村人と共に片付けたその石があちこちに散らばっている等本格的修行を始めるまでの伝説はこの地域に数々あります。また、弁慶島には、松江藩の「雲陽誌」には、弁慶が両親の冥福を祈り石塔を立てたと記録されていて、弁慶島(海抜30m)の頂上には、鎌倉初期に作成されていたという「宝篋印塔」など石塔3基が、倒壊しながら今もあります。

 弁慶が一八歳から三年間修業した出雲市鰐渕町の鰐渕寺に伝わる鳥取県の大山寺から一晩で大きな釣鐘を持ち帰ったことにちなむ「武蔵坊弁慶祭り」(毎年4月に開催)が島根半島西部の旧平田市鰐渕寺に伝承されています。弁慶が修行を終えて紀伊の国を訪ね諸国修行に出かけるまでの、弁慶出生にまつわる母弁吉の来歴等をしたためた「弁慶願状」(長見神社蔵写本)、松江市島根町沖泊には海水で目を洗ったとされる「弁慶の塩搔穴」等島根半島周辺には、弁慶が誕生し生活・勉学し、上京し源義経に出会うまでの数々の伝説が伝わります。
 松江市本庄町から南側に松江市八束町(大根島)がありますが、ここには「西塔武蔵坊弁慶作 雲州四十二浦之垢離取歌」と四十二浦の歌を彫った版木があり、何故ここにあるのかは分かりませんが、弁慶ゆかりの地域に発見されており、弁慶と四十二浦巡りとの関係を指し示す重要な資料です。
 版木の保存時期を見るとおよそ200年前に作られたもので、島根県立美術館によれば、版木の保存状態は良くて、ゆがみが少ない山桜で作成されていて、版木は印刷した後削って別な印刷に使いまわすのが普通なので、版木が残っていることも珍しいと聞きました。

 長見神社から北側への道は、くねくねと道が続き千酌浦に通じていて、美保関線に帰り西側松江方面に向かうと、道の駅本庄(弁慶の里)とコンビニがあり、弁慶の里では付近の住民が育てた野菜、季節の野菜の苗など販売されていて、いつも賑わっています。
 

弁慶森 弁慶の母を祀る弁吉女霊社

 松江市本庄町周辺には、弁慶ゆかりの史跡・伝説が沢山あります。

 長見神社の北東の森は、弁慶が生まれ育った弁慶森があり、その森の中には母弁吉が弁慶を生む時に産湯に使う水を掘ったと云う井戸の跡(今は不明)と弁吉を祀る弁吉女霊社があります。弁吉女霊社は毎年七月一日に「弁吉女霊社祭」を長見神社氏子の行事として、和歌山からはるばる縁を求めてここ長海で出会い、弁慶を生み、亡くなった弁慶の母弁吉を偲ぶ行事として古来執り行っています。

 弁慶森の入口に近年案内看板も設置されましたが、道路を左手に入り、来待石の真四角な敷石をたどって杉林の中に入ると、椎の大木の下に弁吉女霊社の祠があり、弁慶の人形を入れた陶器の家形陶器の、なぎなた・刀等が奉納されています。

 乱暴者ではありましたが、源義経を守り衣川の合戦で、「弁慶の立ち往生」で戦死したとされていますが、元気な弁慶を生み育てた弁吉にあやかり、安産を祈願し、お礼参りする姿が今もあります。   以前は境内には水田もあり、弁慶の産湯に使った水汲み場もあり、四間・二間ばかりの妊婦の御お籠もり堂もあったと聞きました。地域の婦人が集まり、草刈りなどし、お茶を飲む場にしていたものだと伝わっています。

 弁慶の幼少期いたずらに手を焼いて閉じ込められた弁慶島、神社参道の初めの鳥居から左手西側華蔵寺方面からの出水時の岩石を村人と共に片付けたその石があちこちに散らばっている等本格的修行を始めるまでの伝説はこの地域に数々あります。

 弁慶が一八歳から三年間修業した出雲市鰐渕町の鰐渕寺に伝わる鳥取県の大山寺から一晩で大きな釣鐘を持ち帰ったことにちなむ「武蔵坊弁慶祭り」が島根半島西部の旧平田市鰐渕寺に伝承されています。弁慶が修行を終えて紀伊の国を訪ね諸国修行に出かけるまでの、弁慶出生にまつわる母弁吉来歴等をしたためた「弁慶願状」(長見神社蔵写本)、松江市島根町沖泊には海水で目を洗った等島根半島周辺には、源義経と出会うまでの弁慶にまつわる資料・伝説があります。

松江市本庄町から南側に八束町(大根島)がありますが、ここには「西塔武蔵坊弁慶作」と彫られた「四十二浦之垢離取歌」の版木があり、何故ここにあるのかは分かりませんが、弁慶ゆかりの地域に発見されたと云うこと自体は不思議なことではなくて、弁慶と四十二浦巡りとの関係を指し示す重要な資料です。

弁慶島(亀島)
松江市長海町、長海川の北方に地域の鎮守社である長見神社が清楚に鎮座している。

松江市長海町、長海川の北方に地域の鎮守社である長見神社が清楚に鎮座している。『出雲国風土記』島根郡の神社名は残念ながら五社を除いて欠落しており、本来、社名は不明であるが、幸いに平安時代の法律『延喜式』の神名帳によって「長見神社」はわれわれの前に姿を現す。『出雲国風土記』島根郡条に「長見川」がみえており、奈良時代にさかのぼり「長見」を冠する神社であったことがわかる。しかし、「長見」よりも現「長海」の名称の方が中海を前にした地理的環境を勘案すると適切のようである。歴史の悪戯であろうか。

長見神社は式内社であり、風土記社でもある。但し江戸時代では「杵田神社」と書されていた。どうも読みは「きねた」ではなく「きた」神社であったらしい。神社由緒では「当社はじめは先田谷」に鎮座し「大神を杵田(きた)神社ともたてまつり申す」とあるという。「先田」は「さ・きた」であろう。現在も先田という小字は残っており、文政年間の村絵図をみると先田に「森社」がみえており、それが長海神社の江戸時代の姿であった。

 尚、未見であるが、長見神社には弁慶が納めた自筆の願文(写)があるという。明治の『八束郡神社明細帳』によれば同社の境内社として弁慶の母を祭神とする「弁吉女霊社」が記されている。もともと弁慶森に鎮座していたのを明治十二年に長見神社境内に遷したが、弁慶伝説への疑念もあり、「弁吉女霊社」は若宮社との改称を強いられたという。しかし昭和四十八年の『八束郡誌』には尚も「長見神社の境内社に弁吉女霊社と称する小祠がある」と明記されている。まことに「火のない所に煙は立たぬ」であり、伝説・伝承が生まれてくる歴史状況を今一度考えるべきではなかろうか。四十二浦巡りの産みの親、弁慶、その生みの親、弁吉、果たして彼女を祭る「弁吉女霊社」はいかようにあるのか知りたいところである。

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神社名 長見神社
祭神 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
木花開那姫(このはなさくやひめ)
所在地 松江市長海町51
現地までのアクセス
浦巡りガイド

 松江市本庄町周辺には、弁慶ゆかりの史跡・伝説が沢山あります。

 長見神社の北東の森は、弁慶が生まれ育った弁慶森があり、その森の中には母弁吉が弁慶を生む時に産湯に使う水を掘ったと云う井戸の跡(今は不明)と弁吉を祀る弁吉女霊社があります。弁吉女霊社は毎年七月一日に「弁吉女霊社祭」を長見神社氏子の行事として、和歌山からはるばる縁を求めてここ長海で出会い、弁慶を生み、亡くなった弁慶の母弁吉を偲ぶ行事として古来執り行っています。

 弁慶森の入口に近年案内看板も設置されましたが、道路を左手に入り、来待石の真四角な敷石をたどって杉林の中に入ると、椎の大木の下に弁吉女霊社の祠があり、弁慶の人形を入れた陶器の家形陶器の、なぎなた・刀等が奉納されています。

 乱暴者ではありましたが、源義経を守り衣川の合戦で、「弁慶の立ち往生」で戦死したとされていますが、元気な弁慶を生み育てた弁吉にあやかり、安産を祈願し、お礼参りする姿が今もあります。   以前は境内には水田もあり、弁慶の産湯に使った水汲み場もあり、四間・二間ばかりの妊婦の御お籠もり堂もあったと聞きました。地域の婦人が集まり、草刈りなどし、お茶を飲む場にしていたものだと伝わっています。

 弁慶の幼少期いたずらに手を焼いて閉じ込められた弁慶島、神社参道の初めの鳥居から左手西側華蔵寺方面からの出水時の岩石を村人と共に片付けたその石があちこちに散らばっている等本格的修行を始めるまでの伝説はこの地域に数々あります。

 弁慶が一八歳から三年間修業した出雲市鰐渕町の鰐渕寺に伝わる鳥取県の大山寺から一晩で大きな釣鐘を持ち帰ったことにちなむ「武蔵坊弁慶祭り」が島根半島西部の旧平田市鰐渕寺に伝承されています。弁慶が修行を終えて紀伊の国を訪ね諸国修行に出かけるまでの、弁慶出生にまつわる母弁吉来歴等をしたためた「弁慶願状」(長見神社蔵写本)、松江市島根町沖泊には海水で目を洗った等島根半島周辺には、源義経と出会うまでの弁慶にまつわる資料・伝説があります。

松江市本庄町から南側に八束町(大根島)がありますが、ここには「西塔武蔵坊弁慶作」と彫られた「四十二浦之垢離取歌」の版木があり、何故ここにあるのかは分かりませんが、弁慶ゆかりの地域に発見されたと云うこと自体は不思議なことではなくて、弁慶と四十二浦巡りとの関係を指し示す重要な資料です。

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長見神社
弁慶森 弁慶の母を祀る弁吉女霊社
弁慶島(亀島)
松江市長海町、長海川の北方に地域の鎮守社である長見神社が清楚に鎮座している。

松江市長海町、長海川の北方に地域の鎮守社である長見神社が清楚に鎮座している。『出雲国風土記』島根郡の神社名は残念ながら五社を除いて欠落しており、本来、社名は不明であるが、幸いに平安時代の法律『延喜式』の神名帳によって「長見神社」はわれわれの前に姿を現す。『出雲国風土記』島根郡条に「長見川」がみえており、奈良時代にさかのぼり「長見」を冠する神社であったことがわかる。しかし、「長見」よりも現「長海」の名称の方が中海を前にした地理的環境を勘案すると適切のようである。歴史の悪戯であろうか。

長見神社は式内社であり、風土記社でもある。但し江戸時代では「杵田神社」と書されていた。どうも読みは「きねた」ではなく「きた」神社であったらしい。神社由緒では「当社はじめは先田谷」に鎮座し「大神を杵田(きた)神社ともたてまつり申す」とあるという。「先田」は「さ・きた」であろう。現在も先田という小字は残っており、文政年間の村絵図をみると先田に「森社」がみえており、それが長海神社の江戸時代の姿であった。

 尚、未見であるが、長見神社には弁慶が納めた自筆の願文(写)があるという。明治の『八束郡神社明細帳』によれば同社の境内社として弁慶の母を祭神とする「弁吉女霊社」が記されている。もともと弁慶森に鎮座していたのを明治十二年に長見神社境内に遷したが、弁慶伝説への疑念もあり、「弁吉女霊社」は若宮社との改称を強いられたという。しかし昭和四十八年の『八束郡誌』には尚も「長見神社の境内社に弁吉女霊社と称する小祠がある」と明記されている。まことに「火のない所に煙は立たぬ」であり、伝説・伝承が生まれてくる歴史状況を今一度考えるべきではなかろうか。四十二浦巡りの産みの親、弁慶、その生みの親、弁吉、果たして彼女を祭る「弁吉女霊社」はいかようにあるのか知りたいところである。