鷺浦
浦名 | 鷺浦(さぎうら) |
---|---|
神社名 | 【旧社名】鷺大明神 【現社名】伊奈西波岐神社 |
祭神 | 稲背脛命 |
所在地 | 出雲市大社町鷺浦102 |
うらの名(な)の鷺(さぎ)の身(み)の毛(け)も白妙(しろたえ)に
ゆうかけてすめ神(かみ)の広前(ひろまえ)
出雲市大社町へ向かい、その途中、県道23号線北進。
鷺浦は出雲大社の真後ろに当たり、伊奈西波岐神社は出雲大社の摂社です。国譲り神話で大国主大神が美保神社の事代主神に国譲りの勅命を伝えに走ったといのがここの祭神稲背脛命です。日本海を船で美保関へ行ったのか、昔は出雲大社付近は海だったので宍道湖経由だったのかと興味深いところです。ただし美保神社の国譲り神話を今に伝える「諸手船神事」に使用される「諸手船」は、日本海を航行するタイプの船ではありません。
鷺浦の正月行事「シャギリ」は、夕刻から舞手と囃手の一行が各家を訪れ、鬼の面をつけた男が榊の枝をすり合わせながら激しく舞い、厄払いを行います。
鷺浦にはその昔銅山があり、慶応元年(1865)に松江藩の命令で本格的な採掘を行っています。明治5年に精錬高116トンに達したといわれ、明治33年には採鉱高803トン・精錬高69トンになっていましたが、昭和10年代初頭に閉山しました。集落は小さな湾の縁に沿って細い道と民家が建ち並びます。集落の中には大きな商家の建物も混じり、屋号を揚げている家もあり、かつての海上交通時代の繁栄を彷彿とさせます。石見銀山よりはるか古くから銅が掘られ、物資輸送に北前船が活躍したころ栄えたこの集落も、過疎化が進んで人口は激減しましたが、美しい自然と古い街並みは今も残っています。
この静かな立派な家がまるごと超安値で借用でき、街並み探索、海・山・川でバラエティーに富んだ楽しみ方ができます。都会の喧騒を離れて田舎でゆっくりとくつろいでみたい人に訪れてほしいと"鵜鷺げんきな会"がお世話しており、現在10世帯22人の家族も移り住んでいます。
また、鷺浦港中央部の集落中心部に「ギャラリーしわくや」が、樹齢400年といわれる松の巨木のある「塩飽屋」と云う屋号の古民家で、県内外のアーティスト達の発表・交流の場としてアコーディオン・ギター演奏など楽しむことも出来ます。手作りの木工・手工芸作品・バリ島の工芸品の展示・販売、コーヒー等飲み物、出雲のお菓子、藻塩・乾燥ワカメ等海産物の販売、最近はそば・うどん等の簡単な食事も準備しています。(原則は三月一日から十一月までの土日祝日開店)グル-プで訪ねる方があれば、平日でも開店しますので、ご連絡ください。(携帯090-7507-1847)
当研究会が刊行しました、「七浦巡りの旅」6巻各300円、映像で紹介する「島根半島四十二浦巡りDVD」1,500円この3月に「七浦巡りの旅」6巻をまとめ刊行した「島根半島四十二浦巡りの旅」1300円(税別)も販売しています。
現「伊奈西波岐神社」は古く『出雲国風土記』にみえる「企豆伎社」の一つに当たるとされ、『延喜式』にみえる「大穴持伊那西波伎神社」に相当する
鷺浦に関してはすでに広報誌『島根半島四十二浦巡り第一号』に鷺浦コミュニテイーセンター元所長の「鷺浦について」の一文が成果としてある。
現「伊奈西波岐神社」は古く『出雲国風土記』にみえる「企豆伎社」の一つに当たるとされ、『延喜式』にみえる「大穴持伊那西波伎神社」に相当する。「伊那西波伎」は国譲神話の「稲背脛命」に係わるのであろう。
江戸初期の『懐橘談』に同社は「鷺宮」とみえており、四十二浦の版木の「鷺大明神」に符号する。「鷺」の呼称は『出雲国風土記』にみえる「鷺浦」に鎮座していたことによる呼び名である。
合祀されている素兎(しろうさぎ)神は「さぎ」の共通性を柱として「大穴持」神との係わりで勧請されたのであろう。(関 和彦)
浦名 | 鷺浦(さぎうら) |
---|---|
神社名 | 【旧社名】鷺大明神 【現社名】伊奈西波岐神社 |
祭神 | 稲背脛命 |
所在地 | 出雲市大社町鷺浦102 |
うらの名(な)の鷺(さぎ)の身(み)の毛(け)も白妙(しろたえ)に
ゆうかけてすめ神(かみ)の広前(ひろまえ)
鷺浦は出雲大社の真後ろに当たり、伊奈西波岐神社は出雲大社の摂社です。国譲り神話で大国主大神が美保神社の事代主神に国譲りの勅命を伝えに走ったといのがここの祭神稲背脛命です。日本海を船で美保関へ行ったのか、昔は出雲大社付近は海だったので宍道湖経由だったのかと興味深いところです。ただし美保神社の国譲り神話を今に伝える「諸手船神事」に使用される「諸手船」は、日本海を航行するタイプの船ではありません。
鷺浦の正月行事「シャギリ」は、夕刻から舞手と囃手の一行が各家を訪れ、鬼の面をつけた男が榊の枝をすり合わせながら激しく舞い、厄払いを行います。
鷺浦にはその昔銅山があり、慶応元年(1865)に松江藩の命令で本格的な採掘を行っています。明治5年に精錬高116トンに達したといわれ、明治33年には採鉱高803トン・精錬高69トンになっていましたが、昭和10年代初頭に閉山しました。集落は小さな湾の縁に沿って細い道と民家が建ち並びます。集落の中には大きな商家の建物も混じり、屋号を揚げている家もあり、かつての海上交通時代の繁栄を彷彿とさせます。石見銀山よりはるか古くから銅が掘られ、物資輸送に北前船が活躍したころ栄えたこの集落も、過疎化が進んで人口は激減しましたが、美しい自然と古い街並みは今も残っています。
この静かな立派な家がまるごと超安値で借用でき、街並み探索、海・山・川でバラエティーに富んだ楽しみ方ができます。都会の喧騒を離れて田舎でゆっくりとくつろいでみたい人に訪れてほしいと"鵜鷺げんきな会"がお世話しており、現在10世帯22人の家族も移り住んでいます。
また、鷺浦港中央部の集落中心部に「ギャラリーしわくや」が、樹齢400年といわれる松の巨木のある「塩飽屋」と云う屋号の古民家で、県内外のアーティスト達の発表・交流の場としてアコーディオン・ギター演奏など楽しむことも出来ます。手作りの木工・手工芸作品・バリ島の工芸品の展示・販売、コーヒー等飲み物、出雲のお菓子、藻塩・乾燥ワカメ等海産物の販売、最近はそば・うどん等の簡単な食事も準備しています。(原則は三月一日から十一月までの土日祝日開店)グル-プで訪ねる方があれば、平日でも開店しますので、ご連絡ください。(携帯090-7507-1847)
当研究会が刊行しました、「七浦巡りの旅」6巻各300円、映像で紹介する「島根半島四十二浦巡りDVD」1,500円この3月に「七浦巡りの旅」6巻をまとめ刊行した「島根半島四十二浦巡りの旅」1300円(税別)も販売しています。
現「伊奈西波岐神社」は古く『出雲国風土記』にみえる「企豆伎社」の一つに当たるとされ、『延喜式』にみえる「大穴持伊那西波伎神社」に相当する
鷺浦に関してはすでに広報誌『島根半島四十二浦巡り第一号』に鷺浦コミュニテイーセンター元所長の「鷺浦について」の一文が成果としてある。
現「伊奈西波岐神社」は古く『出雲国風土記』にみえる「企豆伎社」の一つに当たるとされ、『延喜式』にみえる「大穴持伊那西波伎神社」に相当する。「伊那西波伎」は国譲神話の「稲背脛命」に係わるのであろう。
江戸初期の『懐橘談』に同社は「鷺宮」とみえており、四十二浦の版木の「鷺大明神」に符号する。「鷺」の呼称は『出雲国風土記』にみえる「鷺浦」に鎮座していたことによる呼び名である。
合祀されている素兎(しろうさぎ)神は「さぎ」の共通性を柱として「大穴持」神との係わりで勧請されたのであろう。(関 和彦)