四十二浦巡りを歩く・・・研究会広報誌から(三代隆司氏)

これは、松江市ジオパ-ク推進室の三代隆司さんが「島根半島四十二浦巡り」を歩かれた記録を研究会に報告頂いた広報誌の原稿です。歩いて島根半島沿岸を訪ねる参考にして下さい。 ○巡り歩く時間を見ながら、トイレ・昼食場所・宿泊のことなどに留意しながら計画を立てて下さい。 ○沿岸は崖崩れなどにより通行止めされていることがありますので、ご注意下さい。 ○現在、魚瀬から古浦までの林道は、通行止めになっています。大型農道に一旦出て、鹿島町佐太神社・古浦天満宮へ迂回することになります。魚瀬にいたる道案内看板が、農道交差点に出ていますので、注意して下さい。 ○また、古浦から西長江町の大型農道に至る朝日山をくぐる「古浦西長江トンネル」の工事中ですが、コロナウィルスの関係で工事は遅れており、現在令和2年11月頃に開通する計画になっています。 ○○○○○・・・・・・・○○○○○ 島根半島探訪 潮汲み巡りて四十二浦(上)       三 代 隆 司 歳も歳だし、十月末に出雲大社出発の計画は立てたものの毎日二十kmずつ八日間、歩き通せるかどうか、美保関に着くまで一抹の不安を抱きながらの巡礼旅でした。その一端を三回に分けてご報告します。  とても困ったことは宿泊でした。ネットで調べた民宿に電話すると「もう今はやっていません。」の声が返ってくるばかりで、半島にあったはずの民宿が悉くと言ってよいほど廃業していたからです。あちこち聞いて回っていたら「ウチに泊まりなさいよ。」と知り合いから声をかけてもらい、宿泊場所が決まったのは山形県での修験道修行から帰ってきた九月の下旬でした。四十二浦巡りの背景に修験道の辺地(へじ)修行があったのではないかと、当研究会の研究副座長の大谷めぐみ氏が指摘されています。また、当研究会が始まった頃の講座に講師としておいでになった日本山岳修験学会理事の山本義孝氏は、島根半島が修験の地であったことを詳しく解説されていました。それを知って、修験道の本を幾冊か読んでみましたが、どうもはっきり分からないと感じて、出羽三山にて修験道を体験しました。修験を習った星野先達のお許しも得て装束を揃え、木幡事務局長にご協力いただいて四十二浦の潮を汲む竹筒、宝印帳などを揃えました。  いよいよ十月二十八日に羽黒修験の白装束で身を包み、出雲大社に参拝して出発。四十二番福浦に参拝したのは十一月四日、この間七泊八日、総距離は百七十キロでした。その詳細は次の通りです。 ・一日目出雲大社鷺浦(泊:輪島屋)、 ・二日目鷺浦小津(泊:親戚)、 ・三日目小津浦小伊津浦(泊:キャンプ)、 ・四日目小伊津浦古浦(泊:民宿よしむら) ・五日目古浦加賀浦(泊:知人)、 ・六日目加賀浦片江浦(泊:知人)、 ・七日目片江浦美保関(泊:旅館)、 ・八日目美保関(地蔵崎巡って)福浦。  各浦では、浜辺に下りて掌に潮をすくって竹筒に注ぎ、藻葉を拾って潮で濯いで神社に参拝しました。この巡礼に際して星野先達から「良いお祈りをするように。」と承っていましたので、「諸々の罪穢祓ひ禊て 清々し〜」という三語拝詞に始まり出羽三山の三山拝詞を、浦毎に少し改作して「綾に綾に奇しく尊と 鷺の浦の 神の御前を拝み祀る」と唱え、そして般若心経を勤行したのでした。(つづく) (松江市ジオパーク推進室事務局員:64才) 潮汲み巡りて四十二浦(中) 三 代 隆 司 十月の神在月の日曜日、天気も良くて出雲大社神門通りは若い人たちで賑わっており、修験道装束は少々気後れしそうになった。通りに面した観光案内所に知り合いが居て、彼女に挨拶しないで通り過ぎるわけに行かないので、中に入ると案の定びっくりされた。これから四十二浦を巡ると伝えると、「わー!私も行ってみたい!」と明るく言ってくれた。 本殿前でお賽銭をして二礼四拍手一礼し、右横に移動して、羽黒修験でいただいた出羽三山の三語拝詞、三山拝詞、般若心経の印刷された紙を広げる。文字には皆ルビがふってある。これを唱えて手を合わせた。瑞垣の格子の内では神職も行事に勤しみ、ご祈祷の参拝者も行き交っていた。賑わう境内を後にした。 途中奉納山に寄った。奉納山は六十六部廻国の経筒が二十数個見つかっており、阿国塔近くに経塚跡という白い柱が立っている。ここにも参拝。もともと納経場所は出雲大社であったものが、ここに移されたと言われている。奉納山からも見えた稲佐の浜に下りて潮を汲み日御碕へ向かう。日御碕神社の朱塗りが青空に映えて眩しい。境内に入らずに背後の海に向かい潮を汲み、藻葉を拾い潮で濯ぐ。ここであっ!と気が付いた。稲佐の浜に行ってから出雲大社の順で参拝すべきであったと。いざ四十二浦と意気込んでいたのでしょう。順番を間違えてしまっていた。  さて、次の宇竜浦から鷺浦へは、宇竜浦の東側にある南へ伸びる街並み進み、そのまま山道に入って行きます。しばらく登った峠道にしめ縄が掲げられており、昔の大社から日御碕への参詣道の雰囲気がありました。山道は中山地区の岐神社のあたりで舗装道路に出ます。そこから約二kmほどで再び山道に入ります。ここから坪背山までは初めて歩いたのですが、結構に険しい道でした。坪背山山頂から園の長浜を遠望して猪目峠に向かいました。  (昨年の経験を生かして今年の五月十五日に、四十二浦歩き旅のツアーを行い、ガイドしました。関先生に歩き旅の企画を話した時、「とうとう歩き旅になったね」と嬉しそうでした。十年ほど前から四十二浦を地域のバスと歩きを絡めて巡る旅が良いとおっしゃっていたそうです。このご報告は叶わず、弔いの旅となりました。) 三代隆司(松江市ジオパーク推進室事務局員:65才) 島根半島探訪 ㈣ 潮汲み巡りて四十二浦(下)                             三 代 隆 司 一日目は猪目峠を鷺浦に下って浜辺にある古民家の輪島屋に泊まりました。持って来た米一合を炊飯器で炊いてレトルトカレーを食べ終わった頃に、安部勇さんと藤井健蔵さんが酒と肴を携えて来てくれて、Uターンして長年取り組む地域再生の物語を聞いた。お二人や仲間があって、今も鷺浦にはIターンする人が続いている。 二日目は小津浦にある母の実家にたどり着くと従姉妹が歓待してくれた。従姉妹の旦那の兄が大社の神門通りで「えにし」という蕎麦屋をやっており、その蕎麦の粉挽き小屋がこの小津にあって、打ちたての蕎麦がご馳走でした。私の祖父は漁師で、叔父にも漁師や船乗りが居て、船でイカ釣りに連れて行ってもらったこともありました。中学生の私は、船乗りになりたかったことなどを思い出した夜でした。 三日目に泊まる小伊津へ向かう海岸沿いに凸凹した洗濯岩が広がり、それを夕日が照らしていましたが、小伊津港に着くころには夕暮れてしまいました。そこへ、知り合いの辻之内くんが来てくれて、夕闇迫る中、幅4m長さ7mの大型テントを二人で張り、中に四人がけのコンロ付きテーブルと椅子をセットしていたら、友達夫婦も差し入れを持って来て、豚汁を作ってご飯も炊いてくれました。辻之内くんは平田でキャンピング用品のブランド「オールド・マウンテン」を立ち上げ、キャンプ用の椅子やお釜型飯盒などを次々に製品化してヒットを連発しています。この日のキャンプは、近頃流行のグランピング(グラマラスキャンプの略)というもので、テントにはストーブも焚いていました。でも夜は皆んな帰ってしまい、寝袋に包まって潮騒に揺られながら眠りました。 四日目は魚瀬を過ぎたら日が暮れてしまい、懐中電灯の明かりと左前方に小さく見える古浦の町の灯が頼りです。しかし道は土砂崩れや古浦と秋鹿をつなぐトンネル工事で通行止めのため、舗装の上に木の葉が散り乱れる寂しさで、イノシシが出ないか心配でした。やっと着いた古浦の海水に火照った足浸して冷やし、泊まったのは民宿よしむら。お風呂場のシャンプーなどに人の名前が書いてあり、恵曇港や原発の関連の仕事で来る常連さんが泊まる宿のようです。湯の中で足を入念に揉みました。ここまで四日間で約百km歩いて、背に負った荷が重く、リュックをお風呂場の体重計に乗せてみたら、着替えや雨具、水、非常食など最小限にしたつもりでも七kgほどありました。(つづく) (松江市ジオパーク推進室事務局員) 島根半島探訪 ㈤ 潮汲み巡りて四十二浦 五日目は古浦海岸からで、この浜の一角が、佐太神社が呼ぶところの「イザナギ浜」です。禊の浜であり、龍蛇の上がる浜です。古浦天満宮近くの板橋家は、龍蛇祝(ほふり)を江戸末期まで司った社家でした。海で拾い上げられた龍蛇が、真性の龍蛇神かを判断する役目を負っていました。 手結浦にあるアナシオは、津上神社の潮汲みの場でもありますが、祭りの時の頭屋の禊の場でもあります。そして戦後間もなくまでは、豊漁や家族の無事を祈願する女性の禊もあったそうです。ただし、人に見られないように深夜のことであったとのこと。 御津の御津神社の本宮は、御津漁港の西に見える男島の頂上にあったそうです。雲陽誌を具に見ると、島根半島にある島で何かしら祀っていたと書かれている数は二十ヶ所を超えます。奄美大島にもそうした港の近くの島を祀っている例が多く見られ立神(たちがみ)と呼ばれているそうです。出雲国風土記には、美保神社の沖の御前が島神とあります。島根半島の島神を巡るカヌーツアーとか構想されているそうで、楽しみです。 野波浦の日御碕神社も元は近くの松の生える小さな島にあったようです。この日御碕神社にガッチ祭という奇怪な祭りがあって、天狗や般若などの面を被った白装束の一団が、ホエーとか奇声を上げて走って来たかと思うと、藁の棒で人をバシバシ叩くものだ。日御碕神社に合祀された社の本宮に里帰りする巡幸なのだそうで、「神様が、その本宮へ往復する道には砂が撒かれる。出雲大社の涼殿神事と同様で、神様は潮で清められた砂の上を歩くんですよ。」と関和彦先生のお話でした。 雲津浦の諏訪神社は四十二浦御詠歌の発見された社だが、私が驚いたのは立派なソテツの木でした。島根半島では、あちこちでソテツを見ました。対馬海流の暖流があってソテツも育つのだろう。赤い実は毒があるそうだが、処理をすると食べることができ、薬として重宝されたという。船乗りのとびきりの南洋土産であったのではないか。その最大のものは大芦にある。うらうらとゆくの取材で、場所と名前は出さないでと言われて入った庭は、まるで南国のジャングルだった。 今年のうちには四十二浦の鷺浦や猪目浦に古民家を利用したホテルもできると聞いている。片江浦で泊めてもらった、「かたゑ庵」もゲストハウスとしてオープンした。七類と諸喰の間の法田にもゲストハウス「ウミノマド」ができている。泊まりやすくなりつつある四十二浦を巡る人が増えることを願っています。                     (終わり) 三代隆司(松江市ジオパーク推進室事務局員:65才)
田田神社拝殿・潮汲み
大芦のソテツ