3.11 「瀬崎の戍(まもり)展望台」開設記念講演会について

・「瀬崎の戍展望台開設記念講演会-島根町瀬崎地域の古代・ジオを考える-」は、地域内外の75名が出席され、質疑も多数あり、盛会の内に終了しました。「瀬崎の火道」周辺で温泉を出現させるためには、1500mを掘り下げる必要があるだろうとのことでしたが、大変な経費がかかることだと思います。また、県内の「瀬崎」氏名の方からは、島根町瀬崎との関連を問われました。地名の流出もあったでしょうが、1300年前からの歴史があり、まずは家系を調べる事から始めるのかもしれません。
3.11 「瀬崎の戍(まもり)展望台」開設記念講演会について

          「瀬崎の戍(まもり)展望台」について

「瀬崎の戍」は、和銅六(西暦七一三)年、政府から諸国に地域の実情を報告するよう求められ、天平五(七三三)年に完成した我が国唯一ほぼ完本の『出雲国風土記』の「島根(しまね)郡(のこおり)」に「瀬崎 磯なり。謂はゆる瀬崎の戍是なり。」とあり、風土記末尾に「瀬崎の戍は、島根郡家(ぐうけ)の東北一十九里なり」と記載されています。合併前の島根町が昭和六十二年に刊行した『島根町誌 本編』には、この平山(海抜七〇メートル余)の頂上に、戍の見張り台があったと記録されています。また、山城・上野・若狭・諸国など、瀬崎の門名・名字にもない地名があり、地域外から戍の兵士が派遣されていたと考えられています。

瀬崎港から西方向に平山の全景

梶野工務店前の五輪塔

島根町誌の見張り場の地図

   

戍の基地・兵舎・見張りの方法等詳しいことはわかっていません。この展望台整備発案者である故小野卓也氏は、この展望台でサツマイモなど栽培している頃に、黒く焼けた石を掘り出したことがあると語っていました。   

瀬崎から東五キロメートルの地点に隠岐の駅家(うまや)との連絡拠点「千酌の駅家」がありましたが、戍とのろしを上げて情報交換したのでしょうか。海上交通が中心で浦々の道路の様子も定かではありませんが、北側に隠岐諸島を、東に北浦の山を、南東に鳥取県の大山を望むここ平山は、出雲市多伎町にあったとされる「宅伎の戍」とともに、日本海側の重要な防衛拠点であったと思われます。

瀬崎には、この戍に派遣された人々を祀ったと伝える五輪塔が数多くあり、県道から瀬崎の入口付近に七基、平山方面に市道を進み、梶野工務店の前にも十二基あり手厚く守り伝えられています。

 元弘(一三三三)鎌倉時代の終わり頃、後醍醐天皇は「建武の親政」のため隠岐を脱出されますが、ここ瀬崎の港に上陸され、いまもその船のとも綱をつなげたという「綱掛の松」が守られています。 

明治維新後の神仏分離令による廃仏毀釈のため、隠岐から避難された仏像が、瀬崎に逃れられたという伝承があり、平山の南側の麓、公園のすぐ下の庵寺に護られています。隠岐国分寺には、いまも首のない石仏が多数保存されており、仏教排斥の様子が伝わります。瀬崎は、戍を始めとして、隠岐諸島との政治・文化等様々な結びつきを物語ります。隠岐諸島は、七類港から五〇キロの地点にあり、高速船で片道およそ一時間、フェリ―で二時間半の距離です。一三〇〇年前瀬崎から最も近い隠岐の知夫里島まで、当時何時間で、どのように行き来していたのでしょうか。

また、平山の南側の麓から東側の海岸伝いに海に出ると、海底から溶岩が噴出した痕跡や溶岩の通り道(火道)を示す「瀬崎の火道」、北端には波の力で石が岩を穿ってできた大きな穴(ポットホール)の「ひょうたん池」があり、ジオの体験が出来ます。海岸を歩く場合は、打ち寄せる波、滑りやすい足元、落石にご注意下さい。

     平成二十九年二月二十八日

              松江市島根町瀬崎区・島根半島四十二浦巡り再発見研究会

       (この展望台は、松江市共創のまちづくり事業補助金により整備しました。)

※大山・沖国立公園域内の為、地色を茶色、文字を白色で瀬崎の戍(まもり)展望台を開設する平山の頂上に設置予定の看板の原稿です。瀬崎の歴史とジオの様子をまとめたものです。小・中学校の生徒たちの学習を意識して作成したものですが、大人にも分かりやすくなっていると思います。平地の桜が終わる頃、山桜が咲き始める4月10日過ぎに是非お訪ねください。

瀬崎港から展望台の平山
梶野工務店前の五輪塔
島根町史の「瀬崎の戍」地図