2.26 古代史講演会「出雲・倭・日本」アンケ-ト集計結果・回答

2.26 魚瀬鹿島町古代史再発見講演会 アンケ-ト

※ 今後の事業計画参考のためお答えください。FAX(木幡)0852-21-9942

                                                       回答率 17/25人 68%

1. あなたのお住いの市町村名をお答えください。(丸印で囲んでください。) 

①   出雲市2(大社町1・旧出雲市、その他の旧町名(平田1    )          

②   松江市13 77%(新雑賀町1東朝日町1新庄町1鹿島町2山代町1東持田1大庭1)

③   島根県内(市町村名     )④島根県外(県名鳥取県2  )

                

2.あなたの性別・年令をお答えください。 

 (12・女5)① 20代 ②30代 ③40代 ④50代1 ⑤60代5 ⑥70代9 ⑦80代2 ⑧90代

                                                    29%      41%  

  1. 3.   この講演会をどんな方法で知りましたか。  

①   新聞7② 公民館等の広報パンフ③ 知人・友人1・家族3④ 研究会HP4⑤その他2

     41%                                      24%        24% 講師のブログ

4.「古代史再発見講演会 「出雲・倭・日本」」で印象に残ったことをご記入ください。

    (田和山遺跡、卑弥呼のこと、中国、島根半島との関係等、質問)

②    謎に満ちた古代へのロマンを強く抱く先生の生の声が聞けて、楽しかった。私も同じ遺跡を見たのに気付かなかったものから想像を広げ、考えを述べておられる姿勢に、経験と年齢を重ねた人の生き様が伝わってきて、元気が出ました。たぶん古代の人々の生活を実際にどうだったのか、ということをひたすら考え続けて来られた結果なのだと思います。

③   スライドで、筑紫 = 九州 とあったが、筑紫は福岡県と思っていたが、本当でしょうか。

④   今日はありがとうございました。田和山遺跡の時代とくにびき神話の時代との関係についてご教示頂ければありがたいです。

⑤   田和山保育園の園児さん方と田和山遺跡周辺の森林で夏場にカブトムシ最終をしたら楽しいのではないか。

⑥   田和山遺跡の古さがよくわかる話でした。

⑦   邪馬台国の所在は明らかであること。古代の地形との関連は?

⑧   日向(ヒムカ) = 卑弥呼(土地名での呼び名)かもと思いました。仮に女性であるなら幼女ではとも。卑弥呼が個有名でなければ、田和山の遺跡の形にも納得です。

⑨   よく理解できました。

⑩   卑弥呼のこと

⑪   大変ロマンに満ちたお話で楽しかったです。 

5. 今後歴史・文化に関して聞きたいテーマ、訪ねたい地域・神社等御記入下さい。

 (第2回目スサノオ伝説・斐伊川流域を巡る旅、四十二浦巡りのバスツア-を計画します。)

ロ 聞きたいテ-マ 後期旧石器時代-縄文時代-弥生時代

・どのようにして、地域交流、交易をおこなったのか(現在のようにGPSも道路も船も十分でない状況(航海術、船の作りなど)

   ハ 加賀潜戸と渡船を巡る旅程が入っていたら訪ねてみたくなるのではないか。運行するバ 
               ス は、一畑バスにしてください。

   二 宍道湖の南側の神社についての話をもっと聞きたい。

    ホ 出雲国風土記ゆかりの地巡り

   へ 加賀の潜戸を中心にし、湾巡り。神社、船寄港地として栄えていた家並や繁栄ぶりを深く知りたい。

 ト 四十二浦巡りバスツァ-の案内

  チ 嵩山、嵩神社、ラフカディオハ-ン

  リ 隠岐地方のジオ関連を巡るツァ-に参加したいです。

  ヌ 四十二浦巡り

アンケ-トに御協力ありがとうございました。

昨年10月末には、「島根半島四十二浦巡り 巡礼帖」(B6版115頁)を刊行致しました。2016年に刊行した「宝印帳」をよりハンディに持ち歩きやすく改訂し、押印欄を大きくして、何度も参拝出来るよう編集しました。

今井書店、島根物産観光館など観光施設で販売していますので、知人・家族で巡拝を計画し御利用下さい。四十二浦巡りの浦々を紹介するガイドブック「島根半島四十二浦巡りの旅」(B5 130頁)、「小泉八雲の足跡探訪-松江出雲隠岐諸島の旅」(B5 130頁)は英語訳も付けていて、国際交流のためにお手元に置きたいガイドブックです。http://42ura.jp/、研究会事務局090-4572-0641にお問い合わせ下さい。 

                                 








島根半島四十二浦巡り再発見研究会

質問票の答えられる範囲の答えです。・・・・堀晄氏質問への回答

① 70代男性 田和山の年代と国引き神話の年代

田和山遺跡は2300-2000年前の弥生時代中期の遺跡です。国引き神話は国のでき方を物語ったもので、「むかーし、むかーし」としか言いようがありません。

② 上野様 筑紫島(九州)と筑紫の国(福岡)の違い

筑紫島というのは伊弉冉伊弉諾の国生み神話で生まれた島で、筑紫、豊国,肥国、熊襲国の4国からなるとあります。福岡を中心とした筑紫の国は律令制度の中で筑前、筑後に分けられました。

③ 藤原様 旧石器、縄文、弥生の交易や交流、ことばや文字について

旧石器時代はわが国では3万年前頃に始まるようで、局部磨製石斧を使って作った丸木舟を操って台湾、沖縄、本土と渡ってきたようです。縄文人も同じように丸木舟を使って交易をしていたそうです。弥生時代には漢時代の構造船が我国に交易でやってくるようになり、それに便乗したり雇ったりしていたかも。日本製の構造船も弥生後期には作られたらしく、朝鮮南部で我が国の杉を使った船材も発見されています。言葉は大和言葉が基本でしょうが、縄文時代にゆっくりと成立していったと想像します。文字は漢字以前に神代文字とかいう人もいますが、私にはわかりません。

④ 宍道湖南岸の神社についてはもっと専門的な人がいると思います。大拙先生とか?

講演レジュメ・・・日本神話の神々         堀 晄

  日本神話というと日本書紀や古事記、出雲風土記の記述が思い起こされ、詳しく調べた方も多いと思います。専門家でもない私が今さら屋上屋を重ねるのもなんですから、ちょっと違った方から見てみたいのです。

 平安時代後期の東大寺に奝然(ちょうねん)というえらいお坊さんがおられました。その当時の日本を代表する知識人の一人で、十世紀末に中国の皇帝、宋の太宗に謁見を賜り、日本の『王年代記』を奉呈しました。王年代記というのは日本書紀などに記されている「一書に云う」などの文献の一つですが、散逸して伝わっておらず、宋史に概略が記されています。

「其の年代紀に記す所に云う。初めの主は天中主と号す。次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って号と爲す。次は天八重雲尊。…次は國常立尊。…次は伊弉諾尊。次は素戔烏尊。次は天照大神尊。次は正哉吾勝速日天押穂耳尊、次は天彦尊(日本書紀の天津彦彦火瓊瓊杵尊:あまつひこひこほのににぎのみこと)、次は炎尊(書紀の彦火火出見尊:ひこほほでみのみこと、山幸彦)。次は正哉吾勝速日天押穂耳尊。次は彦瀲尊(書紀の鵜草葺不合命:うがやふきあえずのみこと)。凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と号す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す云々」

 この時代の日本最高の知識人にとって、伊弉冉や素戔嗚、天照大神が都していたのは九州(古代名:筑紫島)の日向の国だったのです。天津国の主、天照大神は日向に鎮座しておられた。そしてその五代目、人としての最初の天皇である神武が東征し橿原宮で即位し、大和朝廷が始まりました。大和朝廷にとって自己の出自は天津神の国であり、具体的には宮崎市周辺だったのです。

 出雲の国についても考えてみましょう。大国主は天照大神に命じられ国を譲りました。大和にではなく、天津国に譲った、ということは日向の国に譲ったことになります。もちろんその時代には大和の国は生まれていなかったのですから。

 日本(大和朝廷)は隋書や旧唐所に記されていように「倭国の別種」であり、別れなのです。本家は倭国であり、日本成立後も倭国は続いていたはずです。三世紀に卑弥呼が治めた邪馬台国がその後身だったと思われます。倭では長らく戦乱が続き、一女子を共立して王としたと魏書には記されています。彼女こそ天照大神の再来として渇望されたのではないでしょうか?想像が過ぎるかもしれませんが、都が日向だったら完璧でしょう。

 倭国と日本国が暫く併存していたと考えると、卑弥呼が魏王から「親魏倭王」の金印を下賜されたことが日本書紀に記されていないのも頷けます。別の王朝の話で、大和王朝とは関係ないのですから。

堀晄「ピエタ 伊弉冉の死」

 神功皇后紀三十九年条の注に「魏志によると、明帝の景初三年六月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、帯方郡に行き、天子に会いたいと朝献した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」。四〇年条注に「魏志によると、正始元年に建忠校尉の梯携たちを派遣して詔書印綬(金印)を奉じ、倭国にもたらした」とその間の事情を特記しています。新井白石はこれを評して、蛮族の王が僭称したのであろうと書いています。まぁ、この時代になると大和からすれば辺地だったのかもしれません。

邪馬台国に関しては畿内説などという突拍子もない説が流布しているようですが、魏志倭人伝に明確に書いてあります。

「(伊都国より)南、投馬国に至る、水行二〇日、南、邪馬台国に至る、女王の都するところ、水行一〇日、陸行1ヶ月。」福岡の南西の伊都国から南へ船で下がるということは、有明海から不知火海を航行するということです。水行二〇日で倭の最南端、開聞岳付近に達するとすれば、その半分では八代付近で陸行を開始することになります。南方面に陸行というのは球磨川を遡るしかありません。すごい渓谷で、途中に国なぞはなさそうなところです。やがて達するのは宮崎と日向になります。邪馬台国から海を渡る1千里で狗奴国に達するとあり、これは四国のどこかでしょう。邪馬台国畿内説では狗奴国をどこに当てるのか、見当もつきません。

というわけで、日本古代史の重要課題、「天津国とは何か?」、「邪馬台国は何処に?」もあっけなく解決してしまったようです。ホントかしら、とちょっと心配になりますが、その先は皆さんで考えてください。 

堀晄「黄泉平坂」

ニ十四史というのは皇帝に提出する公文書ですから、その記述にはそれぞれ根拠がありました。尚書庁などに綴じられた外交文書や報告書などです。それを広く参照し、校定し、最終的な歴史書が記されました。現在の歴史家と同じ工程を経ているのであり、昔の人だったから程度が低かったということにはなりません。むしろ時代的に近いので、生々しい史料も利用できたはずです。                    (松江市鹿島町在住)